侘助という花がある。
椿に似た、しかし、花びらは一重で、開き方も小さくラッパのような形をしている。蕾をたくさんつけるので、晩秋から春まで何度も花を咲かせる。
私が初めて侘助の白い花に出会ったのは、四半世紀も前、北観音山の吉田家のこの庭であった。夜に眺めたと思う。闇にふっと浮かんでくる可憐な花に、佇まいの素晴らしいこの家に誘ってもらった感動以上に、強烈な何かを私は植え付けられた気がしていた。侘助という響きのせいかもしれない。闇に浮きあがった白の群れは天から舞う雪にも見え、一瞬でも冬の京都に身をおいた私の心に、何か罪悪感めいたものを落とした気がしている。ひぐらし喧騒の中にいる東京では人間として大切なものをう失っているのだという、貘とした罪悪感。その感覚が、私を京都暮らしへと誘ったのかもしれない。
京都の新町通六角下る。毎年夏になると北観音山が建つこの町は、かつて両替商の三井家、松坂屋の伊藤家など、豪商の家々が立ち並んでいた。三井の土地には現在、逓信病院が建つが、私が東京から祇園祭に通うようになってからも、まだ松坂屋の伊藤家所有の建物は蔵などとともに残っていて、新町通りに長く幕が貼られているのがいかにも美しく、毎年、写真を撮っていたものだ。南北に伸びる新町通でも、この界隈だけ道路の幅が広いのは、そうした豪商が馬車を停めるためだった。
山鉾町の家々には、いわゆる京町家が数多く並んでいる。入り口の幅はさして広くなくても、奥が深く、途中に坪庭があるのが特徴だ。そして、さらに奥に構える蔵との間に、吉田家にはもうひとつ庭がある。そこに、この侘助が花を咲かせるのである。
京都で暮らすようになってしばらくして、私は年に数回、この家を訪れている。吉田家は特別で、誰でも中に入れるわけではない。縁のある人が招かれるだけである。祇園祭の折には窓枠が取り払われ、先祖代々受け継がれてきた屏風などを飾って見せるのが習わしだが、それも新町通から眺めるだけで、家の中に入って腰を落ち着けるなどということは、誰か親しい人に連ならなければ叶わないことなのである。
そんな特別な京町家に私がしばしば訪れた理由は、当主である吉田孝次郎氏が京都の商家の暮らしについて語る吉田塾を始めたからだった。私はその塾生として足を運んだ。当初は季節で移ろう町家の室礼などにだったが、次第に、先生のコレクション、小袖、更紗、朝鮮毛綴れなどをご披露いただき、その後の懇親会が楽しみとなっていった。コロナ前のことである。
その吉田塾が日曜日、最終回となった。コロナ禍では途切れ途切れとなっていた講座に一区切りつけて、仕切り直すということである。その記念すべき最終回に、侘助が一輪、咲いていた。私を京都にいざなった侘助の白い花。
その日も、庭の大きな侘助の木には、数え切れないほどの蕾が膨らんでいた。たった一輪の白い花が、私たちに一旦の別れを告げていたのだった。
この日の帯は、侘助文と言いたいところだが、花が開きすぎているかもしれない。椿と呼ぶには花は一重なので、私が勝手にそう解釈している。着物は葉っぱの小紋。葉が落ちる中、侘助が凛と花開いている様を表現したかった。