六本木の出雲大社東京分祠へ。島根の出雲大社に参拝に出向いたこともあり、分祠長さんとお話させていただきました。今年の神迎祭、昨年に続いて、地方の分祠長さんたちも参列が許されていないそうです。
最初のご縁は、拙著『スウィング・ジャパン』(新潮社)の取材。主人公のジミー荒木氏のお父さまは、当時、西麻布にあった東京分祠で資格を取得。開教師としてハリウッドで協会を開き、宮司さんをされていたのです。そこへ真珠湾攻撃。家族は収容所に送られることになるのです。
彼らが収容された地はアリゾナの砂漠。日系人収容所十箇所のうち、比較的ゆるかったヒラリバー収容所でした。ほかの収容所での悲惨な体験については、色々書物が出ています。おそらく一番きつかったのは、世代間の違い。2つの祖国が戦争することになったとき、日本人として生きるのか、アメリカ人として生きるのかというスタンスの違いで親子が対立したのです。アメリカを憎み、被害者としてネガティブな一世たちと、アメリカ国籍を持ち、戦後もアメリカ人として生きようとする日系二世たち。後者は、戦後を見据えて日系人のポジションをあげるために、親の反対を押し切って米軍に入隊します。やがて誰もが徴兵されることになるのですが、ジミーは徴兵組の世代です。
アメリカ人として生きようとする彼らにとって、収容所の中に届くラジオは希望の電波でした。スウィング・ジャズ全盛期、どの収容所にも、高校生のビッグバンドが誕生します。人並みはずれた耳の持ち主だったジミーは、その中心人物となりました。やがて陸軍日本語学校の教師となった彼は、学校でもバンドと作りますが、教員という立場からその活動を止めねばならなくなります。戦争が終わって、占領軍の一人として日本にやってきた彼は、「ジャズの神様」として皆の尊敬を集めるのでした。
ジミーさんの役割は、日本語通訳。おそらくは諜報活動にも関与していたはずです。占領軍は日本国内縦横無尽に動けたので、仕事の合間にまず、西麻布の出雲大社東京分祠を訪ねます。そして島根の出雲大社に向かい、参拝をしています。こうした事実に行きつく手がかりは、「稲佐の浜」で撮影された一枚の写真だけ。事件を追う刑事か弁護士か、足で稼ぐ果てしない作業です。
ノンフィクションは、ジグゾーパズルに似て、一片のピースをはめ込んで絵にする作業です。どうにか絵にできたものの、しかし、当時の私はまだ、神社についてちゃんと理解ができていなかったかと思います。京都で暮らして、いまはかなりの神社通。リライトしたい野心はあるのですが、さほど売れなかったので、文庫化されることは無いままです。
最後は日本文学の教授となる彼の人生については、『スウィング・ジャパン』をご高覧ください。文庫化されてはいませんが、電子書籍で読めます。