朝から錦市場、そして除夜いろいろ

朝9時前に錦市場へ。まずは三木鶏卵の厚焼き玉子。すでに、ものすごい列。しばらくすると、整理券に変更。早い行って、よかったあ。除夜祭2

次に、つきたてのお餅を購入。京都の御雑煮には丸もち。鏡餅。星付さん4つ。星付さんとは、水回り用のお餅です。そのほか、かまぼこや野菜などを購入しつつ、つい鱧の天ぷらを食しました。このところ、錦市場にくるたび、食べてしまうのが、魚力さんの鱧の天ぷら。お持ち帰りには3本買わねばならないので、1本だけ立ち食い。観光客と同じパタンです。

中央郵便局で12月31日消印有効の書類を提出。そのあと、上賀茂神社に向かい、大祓と除夜祭に参列。写真が撮れるポジションではなかったのですが、概ね、夏越の祓と同じ。人形を一枚一枚、ならの小川に流します。16時はまだ明るいので、焚き木はありません。そのあと、除夜祭の神事。あたりは暗くなり、闇の中、二葉葵の提灯で足元を照らされながら、摂社末社に感謝のお参り。私たちも、そのあとに続きます。

朮火和久傳にて予約しておいた「春の肴」をピックアップ。家に持ち帰り、八坂さんへ朮詣り。昨年、夜中に出向いて、とんでもない目にあった私。23時になると、入場規制をかけられるのを知らなかったのです。四条通いっぱいに若者が集い、待っている間、長いし寒いし・・・。だから、今年は20時ころに向かったのでした。とはいえ、朮火を縄に移して持って帰るには家まで歩かねばならず、そのあとではお蕎麦屋さんが混むことは明白で、ならば先に年越しそばを食そうと南座に行ってみたけれど、すでにすごい列。途中の八雲で出雲そばをかも南蛮で。21時ころに再び境内へ行ってみると行列が。何に並んでいたかといえば、朮酒のふるまいで、これが美味。いわゆるお屠蘇のようで、どうやら、その配合に意味があるらしい。

朮火2帰宅後、火をどうにか縄からろうそくに移し、少しだけ紅白を見て、23時半過ぎに、六角堂で除夜の鐘つき。いきなり大粒の雨には閉口しつつ、これで厄落とし完了です。

今年は秋から風邪に悩まされました。新年は健やかに過ごせますように、と祈りつつ。

 

 

 

2013年12月 桐文の結城紬

書展1-220x300
祖母の反物を仕立てた結城紬。文様は桐の葉と花、葉はゴールド、花は朱色です。ピンキリという言葉にあるように、12月に桐文を着るのがふさわしいと聞いたことがあります。着ると温かいため、師走はよくこれを着ました。写真は、以前に撮影したもの。顔も少し若いです。

2013年12月 師走は紬で

12月初めは東京で仕事。和服を着たのは後半になってから。寒くなると結城系の紬以外、考えられません。風邪をひいたりして、外で撮影する余裕はありませんでしたので、過去の写真でお許しを。
もっともよく着たのは、深緑の紬。祖母の引き出しで洗い張り終了状態だったものです。そこに合わせるのは主に侘助の帯。年末には水仙も活躍しました。
この紬は裾回しが帯と同じ桜色なのがミソ。のちほど、アップの写真を掲載しますね。

2013年12月 幾何学お召し+矢絣襦袢@京都展

書展2013今年は最澄の「久隔帖」を臨書しました。京都に来たら、ほとんどのお寺が天台宗であることに驚いたものです。比叡山の御膝下なのだから、当然といえば当然ですが・・・。「久隔帖」は最澄から空海(体裁は弟子の泰範)に宛てた尺牘手紙。国宝。冒頭の「久隔清音」から「久隔帖」と呼ばれています。
京都の書展最終日。昨日の体調では、和服を着る気力をもてるかどうか微妙でした。書展へは着物で行くと決めているのに、です。しかも、今年は仕立てたばかりの母のお召を着ようと張り切っていたのです。
赤いお召は洗い張りにした後、丸められた状態で、押入れのガンガンの中で眠っていたもの。赤は私の好みだけれど、この幾何学が初心者には難しい気がして、最近まで手を付けないできました。けれども、この矢絣の襦袢を三越のセールで1万円で手に入れて、急きょ仕立てようと思い立ったのです。
帯はアンティークのお店でハギレ的扱いをされていたもの。表は竹と花、裏は橘。実際、だらりの帯として仕立てられているので、とても自分で結べません。作り帯にしました。

睡眠にまさる治療法なし

東京では耳鼻科を訪ね、おびただしい種類の薬を与えられた。朝一とか就寝前とか飲むタイミングは違うのだが、飲み分けのタイミングは、頭がウニになりそうなほど複雑だ。父が生前、いろいろな種類の薬を渡されていたが、どれほどわずらわしかったことか、今回、初めて理解できた気がする。

京都では前回と同じ呼吸器科の医師を訪ねた。血液検査の結果、抗生剤を点滴してもらうことになった。CPRの値で、菌と闘っていることが証明されたからだ。なにより、胃があれて嘔吐し、薬も流れてしまうなら、点滴のほうがありがたい。

嘔吐について尋ねた。やはりクラビットによる副作用なのだという。6日の夜はうかつにも、ワインを口にした。それまで酒を控えていたのに、油断したのだ。京都に医師によれば、お酒によって、副作用が出ることはあるのだという。薬局の説明書きには副作用としての嘔吐は言及されているが、飲酒を禁じるとは書いていなかった。この責任は大きいと私は考える。

それにしても、2か月で同じ症状を繰り返すなんて、抜本的に治す方法はないものかとも訊ねてみた。私の鼻が過敏になったか、最近の空気汚染に問題があるか、などなど。医師によれば、若くないのだから、十分な睡眠をとる以外に治癒の方法はないのだという。今日は原稿を書くつもりだと話せば、1時間ずつでもいいから間に睡眠をとることを勧められた。

で、横になったら、あらら、2時間経過。やはり睡眠が足りていなかったのかしらん。

 

真珠湾攻撃、そして久隔帖

書展2013昨夜、早々に眠ったのが功を奏し、少し楽になっている。楽書会書展へと向かう。

今年は最澄の「久隔帖」を臨書した。京都に来たら、どのお寺も天台宗で驚いた。比叡山の御膝下なのだから、当然といえば当然だが・・・。久隔帖は最澄から空海(体裁は弟子の泰範)に宛てた尺牘手紙。国宝。冒頭の「久隔清音」から「久隔帖」と呼ばれる。

昨日の体調では、和服を着る気力をもてるかどうか微妙だった。書展へは着物で行くと決めているのに、である。しかも、今年は仕立てたばかりの母のお召を着ようと張り切っていたのだ。赤いお召は洗い張りにした後、丸められた状態で、ガンガンの中で眠っていたものだ。赤は私の好みだが、この幾何学が初心者には難しい気がして、最近まで手を付けなかった。だが、この矢絣の襦袢を三越のセールで手に入れて、急きょ仕立てたくなったのである。矢絣

ところで、1941年12月8日は真珠湾攻撃の日。ハワイ時間では7日日曜日の未明。カリフォルニアでは朝9時55分だった。これを機に、西海岸の日系人の運命が大きく変わる。やがて収容所送りになるのだ。日米関係を知るうえでも、大国の思考回路を知るうえでも、日系人について私たちは知る必要がある。詳細は『スウィング・ジャパン:日系米軍兵ジミー・アラキと占領の記憶』をご高覧くださいね。

鼻から気管支へ

未明に起きて、朝一番の新幹線で京都へ移動。富士山には少し雲がかかっていたのが残念。 二十四節気で、昨日は「大雪」。節気の初日は何か新しいことを始めるのにふさわしいのだが、鼻炎から気管支に菌が入って、咳こんで終わった一日。抗生剤のせいで胃があれたのか、昨夜は嘔吐して、最悪の事態。

京都では、東京からやってきた編集者と会う。しかし、鼻を襲っていた菌が気管支にやってきて、声が出ない。うまく話せない。寒気も覚える。家でおとなしくしたほうがよさそうだ。本当は石川九楊塾楽書会の書展に顔を出すつもりだったのだが。寝不足のまま新幹線に乗ったのが敗因。今日は十分な睡眠をとって、しかし、明日悪化していたらどうしようと不安でもある。

六本木を歩く

一昨日の仕事の続きで、六本木界隈を歩く。普段、見落としているものをいろいろ発見して楽しかった。ロアビルの中にも久しぶりに入ったが、エレベータから見た風景が新鮮。

鼻かみすぎの鼻の下ガビガビ状態は、皮膚をピーリングして、どうにか乗り切ったつもりだが、アップにされたら、どうかなあ。

ところでNHKBSの海外ニュースによれば、ソウルの空気汚染はかなり深刻だ。中国からのスモッグが街を覆っている。キャスターがマスク着用を呼びかけている。成分を分析すると、硫酸塩と硝酸塩。キラリと光るのは鉛などの金属なのだそう。日本にも届いているのだろう。私の鼻炎も、この影響かもしれない。

某雑誌の仕事で、皇居のまわりを歩く。鼻のかみすぎで鼻の下が真っ赤だった状態から、薄いかさぶた状態へ。大丈夫かなあ。

最後に三宅坂に向かった。永田町・霞が関一帯に響き渡る国会前のデモの騒がしさに驚く。太鼓の音を騒音と呼ばずに何と呼べばいいか。石破幹事長がデモと呼んだ理由はこのあたりにありそうだ。このくらい音を出さないと、テレビで取り上げられないということを計算しているようだった。日没前に参列しているのは、幟などから判断するに、労組など組織に動員された人々や、退職された世代=学生運動を知っている世代なのだろう。実際、夜になれば勤め帰りの人も加わるのだろう。

 

今日、雑誌のインタビューを受け、結果、それで終わらず、金曜日に六本木の街を歩くロケをすることに。明日は別の雑誌の取材。持つかなあ。今日は耳鼻科で処方された夥しい数の薬を服用して乗り切った。薬嫌いだけれど、取材中の鼻づまりを乗り切るには仕方ない。このまま無事にスケジュールをこなせるだろうか