FDR図書館

夜更かしがたたって、スタートが遅れた。早朝に列車に乗るつもりが、大幅な遅刻である。ルーズベルト図書館まで、グランドセントラル駅から北上すること2時間弱。新幹線なら東京から名古屋までより長い時間を要するのである。

ルーズベルトは真珠湾攻撃のときの大統領であり、西海岸の日系人を根こそぎ収容所に入れたときの大統領である。セオドア・ルーズベルトと区別する意味でも、このフランクリンルーズベルトはFDRと表されることが多い。

アメリカでは、大統領ごとに図書館が存在する。FDRの場合は、ルーズベルトの自宅を博物館にし、その中に図書館が設けられているのだ。

果てしない乗車の末に着いた駅では、タクシーに悩まされた。シーズンオフでなければ、駅とルーズベルト博物館の間をシャトルバスが走っているらしい。春も秋もいかにも景色が良さそうで、観光客がFDRの館を観に行きたがるのも頷ける。

こんな冬枯れた季節に列車で訪れるのは、図書館でリサーチする外国人くらい。駅員にタクシーを呼んでもらったが、30分以上やってこない上、すでにほかの客が乗っている始末。この相乗り式はかつてのワシントンDCでもよくあったが、日本人にはなじまない。遠回りしておいて、それぞれからお金を取る。ようわからん。

季節外れの博物館はカフェも閉まっている。食事は駅のスタバで済ませたので、黙々と資料に目を通すうち、あっという間に17時となった。

来るときにお願いしたタクシーが案の定、姿を現さず、職員に電話で呼んでもらう。列車に乗りそびれたら、1時間も駅で費やさなければならない。事情を知ったドライバーと子連れの母親が、私を先に駅に送り届けることを決めてくれた。それでも、ギリギリ駆け込む形で列車に飛び乗る。帰りはまた、獏睡モードである。

友、遠方より押しかける

ご主人が海外出張というので、今回はNYの友人の家に泊めてもらう。ドアマンから鍵を受け取り、彼女の帰りを待った。仕事の後、チェロのレッスンで21時ころに戻るという。それまでに携帯を手に入れなければならない。以前持っていた携帯はさすがに期限切れなのだ。それからネットにつなぐためにスタバに入る。日本と違って、アメリカは誰でもワイヤレスにつなげる。この違いは大きい。

さらにはデパートのMACYSでミュールを探したが、セールで荒らされた後には、私のサイズは残っていなかった。英国製のBORNシューズはクッションが効いていて足がとても楽なのだ。数年前にMACYSで薦められ、米国に来た折には必ず売り場を覗くことにしている。

それにしても、友人はなんて整然と暮らしているのだろう。ホテル並のきれいさである。しかも、調度品の趣味がいい。アジアに赴任している間に買った家具がまた、いい感じなのである。

帰国したら、自分の家も片付けよう。と思ったら友人が帰宅し、久しぶりの会話に、夜中まで盛り上がった。

アメリカへ

まことに恥ずかしながら、日本を発つときはいつもドタバタである。特に午前便なら、完全徹夜するしかない。途中で朦朧とする時間帯もあるのだが、寝過ごすのが怖いから、そういう選択になる。

先延ばしは許されない。不在中の締め切りごとを前倒しでこなし、渡航先で起こりうることを想定しての準備。前日までに出しそびれた宅急便は、ホテルまで持ち込んで、リムジンに乗る前にベルボーイに託す。これも、よくあるパタンだ。

最近はどこの国でも気温差が激しく、厳寒対策も必要だ。イヤーマッフルとスキー用のネックウォーマーを詰め、13年前に買ったイッセイミヤケのロングダウンを久々に着ることにした。機内では布団なみの威力を発揮する。念のため暖かい日対策として、通販で購入した膝下丈のウルトラライトダウンをスーツケースに入れた。小さくまとまるので、ありがたい。

そしてこの季節、なにより力を発揮するのはレッグウォーマーである(写真、ボタンはハート型)。新幹線も含め、機内で足元を温めるのに有効なのだ。それに、寒かったときにはブーツの代わりにもなる。アメリカでは荷物チェックの際に靴を脱がされるので、ブーツは履かない。後ろで待っている人に迷惑がかかるからだ。機内では確実にむくむので、タイトな靴も履かない。脱ぎ履きが簡単なミュールを履き、レッグウォーマーを持ち歩くことで、ブーツと同じ暖がとれるというわけだ。 

そんな調子だからリムジンの中では、もちろん爆睡だ。気づいたら、パスポートチェックのアナウンス。もう空港はそこに見えている。

今回はANAでNYに飛び、アムトラックでワシントンDCに移動。帰りはダレス空港からという段取りである。本来は正月早々、優雅に飛びたつつもりだったのに、尾てい骨を打ったために、下旬になってしまった。

特筆すべきはスターアライアンス・ゴールドの資格もこの旅で失うということだ。地球の怒りを感じた私は、東日本大震災を機に、以前ほど縦横無尽に飛び回ることがなくなっていた。結果、マイレージが5万マイルに達せず、1月末をもって、ゴールドステイタスでなくなるのだ。エコノミーの分際でビジネスラウンジにて過ごす特権も、荷物の優先権も失う。貧富の差が露骨なフライト社会で、貧民にカテゴライズされるのである。

書初め

今日は書初め。昨夜は京都に一泊して今朝人似会い、東京に着いた。

報道の印象では昨日雪が降ったのだとみえたのだが、実際は氷雨だったらしい。相変わらずの雨。荷物を持っての移動は大変。

2012年1月 初釜式


昨年は熱が出て断念した裏千家の初釜式。今年は20代のころ母が作っておいてくれた訪問着に、母の色留用の帯を締めていきました。実はこれ、ノーブレスで大宗匠にインタビューしたときと同じなんです。今回の伊達襟は紫ではなく、臙脂にしました。若作りと言われずに着られるのも、あと何年か・・・。
写真は帰りに寄った青山フィアットカフェにて撮影。携帯で撮ったので、色が少し青みがかっていますが、テーブルの花と妙に合いますよね。
奥のソファにあるのがバッグ。タイのジム・トンプソン製。クロークで預けてしまうので、もろもろ入る大きいものであることが大切なので。

2012年1月 初句会

新年句会には、女子は着物で、という呼びかけを受けて、和服を着用。みなは美容院に行って、ぴしっと髪を結い、あでやかなお着物でした。原稿執筆中の私は、ちょっと片手間?いつもと同じ空気で失礼しました。
おそらく平成になってから母が購入したであろう着物に、黒の刺繍帯を合わせてみました。花は牡丹(乙女屋さんで購入)。
平成の母の着物はサイズが大きいのかもしれません。生地的にもぱりっと着こなせないのが難。晩年の母は太っていたし、私は最近体重を戻したので、ますます生地をもてあますように感じます。自分で着るときは、身幅を狭く仕立てるほうが締まる。けれど、そのためだけに仕立替えるのも、勿体無い。せっかく痩せたのだから、普段着は昭和着物に徹しようかと思うこのごろ。

大江幸若舞の瀬高へ3

予想通り、青空が広がっている。文献資料のコピーは昨日終えたので、今日は10時過ぎの列車に乗り、舞台の開演前着を目指す。

少し朝寝坊。夜中に温泉に入っておいて正解だった。取材のホテルは立派である必要はなく、まずは新しいこと、できれば温泉がついていることが私の条件である。どんなランクが上でも、古ければカーペットに匂いが染み付いている。最近の地方都市では、新築のビジネスホテルには、小さいながらも空気清浄機つきの部屋を完備、プラス温泉がついている。今回もそうしたホテルをみつけて予約した。中州の近くに泊まれというアドバイスを無視して。

幸若舞については、次回策に書くので、ここでは記さないが、信長がこよなく愛した曲舞だとだけ記しておく。人間50年・・・の敦盛は能ではなく、幸若舞なのである。それを蘇らせて今日、上演された。毎年雪が舞う奉納舞の日に晴れたのは、信長の霊のなせる業だったかもしれない。

大江幸若舞の瀬高へ2

博多はあさから雨。あさ早くに瀬高に移動するため駅に急いだが、昨日新幹線のホームで見かけた河豚のお弁当は早すぎて未着。さば寿司で妥協した。10時から開く市立図書館で文献のコピーとりに勤しんだ。案の定、食堂などはなく、駅で買ったさば寿司が昼食となった。夜は幸若舞の練習を見て、列車に飛び乗った。

快速もなく、博多に直行しても十分に遅いというのに、途中下車をして、アンティーク着物を見せてもらう。ウェブで帯を購入したことにある店で、できれば実物を見たいと考えたからだ。

終電がなくなり、タクシーで博多に戻る。意外に近く、料金は2500円。またまた地のものを食べないまま日付をまたいだのだが、近所の居酒屋へ駆け込む。地のものとリクエストしたら、鯖とめんたいこのみといわれ、鯖づくしの日となる。

明日はいよいよ幸若奉納舞の本番だ。敦盛も上演される。雨は今日のうちに降ってしまったので、晴れそうな予感がする。

大江幸若舞の瀬高へ

福岡にやってきた。博多を拠点にして、みやま市の瀬高と往復する。周遊切符を利用するため、鉄道で移動する必要があった。

ここは空港かと見まごう電光掲示板の眩しさが、駅の新しさを物語る。LEDライトを使っているか、明らかに色が違う。デジタルでぴかぴかになった博多駅に到着した。

ここを拠点に、みやま市の瀬高と往復する。周遊切符を利用するため、鉄道で移動する必要があった。

東京からはいつもと同じ「のぞみ」に乗り、新大阪で降りて、JR九州の「さくら」に乗車した。普通車でもグリーン車並に座席が広い。このまま乗れば鹿児島に到達する。

私は博多で下車。そこからは在来線だ。数多ある在来線の発車時刻とホームの番号を示す電光掲示板も真新しい。だが肝心の現在時刻は表示されていない矛盾。あと何分余裕があるのか、かばんの中から携帯を取り出して、時刻を確認する。昨今の日本の鉄道の駅には時計がない。そのことに改めて腹を立てながら、スイスのチューリッヒ駅には、巨大な円形のアナログ時計の横にダイヤの掲示板があったことを思い出す。それこそが駅の基本形である。

さすがに在来線の車両は古めかしくて、ほっとする。窓の外を見上げると飛行機が頭上を飛んでいった。東京に向かうのかアジアに向かうのか。しかし、地上では人々の営みが続いている。

私が目指したのは、鳥栖。久留米、荒木を経て、しかし大牟田の手前にある瀬高町だ。いま書いている人物の痕跡を求めての取材だが、20日には年に一度の幸若舞が奉納される。そこまでの滞在だ。

裏千家初釜式

昨年は発熱で欠席してしまった裏千家の初釜式。今年は20代のときに母が作っておいてくれた訪問着を着用した。

帯は母の留袖用のもの。2006年に大宗匠にインタビューしたときと同じ組み合わせだが、今回は伊達衿を臙脂にしてみた(インタビューの内容はArchivesをクリックして、日本の真髄をご高覧ください)。

写真を撮ったのは、青山一丁目のフィアットカフェ。内装はキャンペーン次第で変わる。いまはフラワーモチーフで、なぜか和服の花とマッチするのが不思議だ。ライトの加減と携帯で撮影したために、少し青みがかっている。バッグは袱紗袋が入る大きさのものを、と左奥にあるものを選んだ。

20代の着物が浮いて見えないうちが花。いつまで大丈夫かなあ・・・。