植樹祭@石巻

緑の堤防を提唱している宮脇昭先生指導の植樹祭@石巻の模様が、今夜のニュースゼロ(日本テレビ系)で放送される予定です。ぜひ観てくださいね。

2011年05月 小紋はしばらくお休み


根津美術館に着ていった小紋には、やはり無地か幾何学の帯のほうが合うかなあ、と縮縮の帯を合わせてみました。
同じマンションに住んでいるインド系アメリカ人とバッタリ出会ったら、親切にカメラに収めてくれました。
五寸の袖を短くするのにコストがかかるのと、何箇所かにシミがみつかったので、まずは洗い張りにして、この小紋はしばらくお休みにして、箪笥に仕舞おうと思います。
深い紫の帯がみつかれば、年相応に着られるかも。
 

山の手空襲の夜

66年前のいまごろ、5月25日夜10時過ぎ――。東京の明治神宮・表参道に大きな空襲があった。写真の左、信号の下あたり、みずほ銀行前に、黒こげになった遺体が山積みにされていた。この話は『ワシントンハイツ』第1章に詳しく書いているので、ぜひ読んでほしい。

1944年11月から終戦までの間に、東京は130回、空襲を受けた。なかでも45年の4月から5月にかけての、東京全域にかけて4度の大空襲を「山の手空襲」と呼び、3月10日の下町空襲と区別している。

5月25日に東京全域に落とされた爆弾の量は、実は3月10日のほぼ2倍。死者2258人。負傷者8465人と記録されている。

どうか空襲で命を奪われた方々の無念に、思いを馳せてほしい。戦没者もさることながら、切り詰めながら本土を守った市井の人々が犠牲になる戦争が、いかに無意味か。今夜だけでも、そのことを考えたい。

笑顔の裏に核実験@ウィグル

昨日の深夜、NHKBSで80年代のシルクロードを観た。長閑で牧歌的でつい行ってみたくなる。 

あのころシルクロードを撮影したのは、NHK特集のスタッフとサントリーオールドの広告制作者くらいだったのではないだろうか。だから、私にとっては、懐かしいのだ。もちろん、私は映像で観ただけなのだが、切り取った空気がNHKと同じだから。「誰がつくる次の時代」「夢街道」など、言葉もよかった。ADは浅葉克己さん、コピーは長沢岳夫さん。詳細はここをクリック→http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:zwTVVWp_WkoJ:www.acccm.or.jp/kaiho/128/nanatsunokao/index.html+%E8%AA%B0%E3%81%8C%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%8B%E6%AC%A1%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%80%80%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&source=www.google.co.jp

 人々の笑顔からは読み解けないが、実は中国政府による弾圧が続いてきた土地でもある。文化大革命の嵐が吹き荒れた後も、現在の北京政府による虐殺は絶えない。

 そして何より許しがたいのは、中国政府がこの土地で核実験を46回も行ったことだ。東京オリンピックの1964年から96年まで続いていたという。日本が経済発展にまい進してきた間、ウィグルの人々は放射能汚染を受けてきたということだ。結果、20万人近い人々が亡くなり、120万人が白血病を患ったという算定もある。国際社会は、この問題を追及する必要がある。

 日本にも飛んできている黄砂に放射能が含まれているのは、ウィグルでの核実験の結果かも。だとすれば、対岸の火事ではない。少なくとも中国政府が他民族を、いや漢民族でさえも、モルモットにしてきた事実を私たちは知っておく必要はある。

ちょっとツイート

ワシントンハイツの写真探しに奔走している。

昨日は渋谷区役所に出向いた。3年前にようやく探し出した一冊の小冊子が、その後、どこかの部署からごそっと出てきたという。当時は存在しなかったワシントンハイツの中の写真もみつかったらしい。

ウェブ上でも、ワシントンハイツの思い出に言及する人が増えた。私がリサーチを始めたころは,まったくの手探り状態だった。悔しいやら、嬉しいやら。

ブログなのに、思わずツイートしたくなる今日このごろです。

杜若にほっと一息

次の会期までしばらく閉じている根津美術館。5月初旬の杜若は見ごろでした。大勢の人々が紫の杜若に見とれている中、池のほとりにひっそり咲く黄色を一輪だけみつけたので、アップしてみました。

久しぶりの「中東・アジア」談義

東京都立中央図書館と上智大学の図書館に通う日々を送っている。

今日は昼間、ニューオータニで薬膳を食す機会がり、その足で隣の上智の図書館に行き、博士課程前期後期にお世話になった先生方の研究室を訪ねてみた。いきなりだったのに、快く受け入れてくださり、うれしい限りだ。

「いやあ、あなたのことを思い出したところだった。最近の大学院生はずいぶん違ってきたからね。なんだか懐かしくて」

と言ってくださった先生とは、一連の中東革命をどう分析するか。インドネシアとどう似ていて、どこが違うか。世界のイスラームはどうなるか、などなど。

その後、博士課程前期の指導教授と少しだけ話す。東北で被災したフィリピン人たちに何が起きているかについて。バチカンは震災直後から東京での彼らの支援に熱心だったが、いまは現地まで出張ミサに行っているのだという。内に溜め込むとつらいが、ミサで思い切り泣くということが大切なのだそうだ。

最後は博士課程後期で一緒だった友人の研究室を訪ねた。上智の選任講師になるとはかなりの出世である。彼とインドネシア人の被災について話した。インドネシア政府も放射能には敏感で、領事館がすばやく動いたので、ほとんどが帰国している。予想外の段取りのよさだったのだ。

このところ電力と原発の文献ばかり読んでいたので、しばしアジア・中東にシフトできて、私の脳も喜んだ風。母校の存在はなんとありがたいのだろう。感謝、感謝。

2011年05月 ジャズの帯on結城


佐賀の島内さんで購入した帯。きもの雑誌に写真が載っていたのを見て、お店に電話をしました。
襦袢は紫織庵さんの天使と楽器。音楽ものの帯には、その襦袢を着たくなります。
きものを始めて最初のころは、コンサート用に音楽文様が欲しくて欲しくて探し回り、和楽器(アンティーク刺繍)、ジャズ、音符#♭をみつけて衝動買いしています。
そんなに焦らなくて後々出回るようになりましたが、最初のころは気が急いて、散財するものです。
ところで、この母の着物はどうやら結城のようです。よくからだに馴染むので、ずいぶん着込んだのでしょう。私の記憶にはありませんから、祖母から受け継いだか、私が幼いころに着ていたのかもしれません。最初は地味と思って避(よ)けていたのに、似合うようになってしまいました。

2011年04月 母の大島と琉球絣の帯

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すそまわしと胴裏の染みが気になったまま、仕立て替えていない大島です。身幅がないので、母の若い時のものと思われます。
黄朽葉色の花が見えるよう撮影しようとしたのですが、難しかった!  肩と袖に花があるのです。
帯は琉球絣。きものを始めてまもなく、青山みともさんで購入したものです。
ずっと以前に買った三つ編み風のカチューシャは、上にボリュームを作るのに貢献してくれます。

期限は30年と決めよう

最近、大メディアが原発の日本への導入の歴史をたどり始めた。私自身も膨大な資料を読みながら、占領期の電気事業からの掘り起こし作業をしているが、評伝ひとつとっても、本によって諸説あるので、これが正しいというところに簡単に行き着かない。 私になりに整理して、近々ここに書くつもりだ。

そうした振り返り作業をしながら思うのは、何事も30年が限界だということである。時代の流れは早い。将来は未知数だ。そう謙虚に考えれば、10年、20年で立ち止まり、大きな修正を加えるか、終焉に向けて動き出せるはずなのだ。利権やしがらみで雁字搦めになって、何も変えられないのが、政治の負の部分である。 

中東革命でわかるように、独裁政権にも賞味期限がある。チュニジア25年、エジプト30年。リビア40年。国民にも世代交代が起きるのだから、政権は30年しか持たない。インドネシアのスハルト政権も32年だった。それでも30年なら民衆革命というシナリオも成り立つが、40年まで引っ張るとどうなるか。リビアの惨状を見れば明らかだ。国際情勢も大きく変わる。

 福島原発1号機が動き始めたのは1971年。30年といえば、2001年だった。それまでに、スリーマイルでもチェルノブイリでも事故が起きている。何度も繰り返された原水爆実験を含め、痛めつけられた地球が怒ったのだと思う。にもかかわらず、アメリカもソ連も、事故に懲りずに原発を続けている。戦後復興のために導入した日本でさえ、経済大国になってもなお、原発を増やし続けてきた。機材に問題がある指摘したGE社員の声や経済産業省の若手の声をもみ消して福島原発を40年も使い続けたツケがまわってきた、と謙虚に受け止めるべきだろう。

 原発の寿命は30年と決めよう。これまでの原発推進予算を未来エネルギーに向ければいい。電力会社のありようなどの問題は、それを決めてから、手をつければいい。

浜岡は歴史が浅いと言う人もいるだろう。しかし、コンクリートの堤防が逆効果だったとわかった以上、全く違う発想の防潮堤が必要だ。まずは植樹で「みどりの堤防」をつくり、単なるコンクリートの堤防ではない防潮堤を築いてから、再稼動すればいいではないか。