余計なことはしない。
頭で考えずに、
透明に表現する。
―――能楽師 三川泉
東京では盆の入りは7月13日。読経はその後にお願いするものだが、両親の霊がいる間は平日という理由なのだろう、弟のアレンジでそれ以前の10日にお寺に行くことになった。同じような趣旨で、その日は何組も寺を訪れていた。
盆の入りはといえば、霊園で迎え火と送り火を焚いてくれることがわかり、最近はそれに申し込むことにしている。とはいえ、灯篭だけ立派なのもバランスが悪い。供花と掃除はその前に終えなければ、と13日の昼ごろ、墓石を磨いていると、大粒の雨が降り出した。
これまで、迎え火を自分のところでやってみたいと、マンションのベランダや入り口近くの歩道の端っこに小さな鍋を置き、その中で燃やしてみたりしたことがある。最近の東京は何時になっても明るく、一体いつが迎え火を焚くべき時刻か悩んだりもした。だが、そういうことに詳しい友人に言わせれば、私の家で迎え火を焚けば、両親の霊が仏壇のある弟の家に行けなくなるので、余計なことをしてはいけないのだという。
お供え物の数々は今朝そろえてみた。果物はお供えパックのほうが、はるかに無駄が無い。手作りの蓮の落雁、それに白おこわやオハギは日々、西麻布の「青柳」で買うことにしている。老夫婦が営むこの店で、母が他界したときから、お盆の慣わしを色々教えていただいている。お二人とも髪が真っ白になったのを見ると、13年の歳月を感じずにいられない。
とりたてて仏教徒というわけではないが、日本にいるときは、こういう慣わしに身をゆだねることにしている。これも、日本的なるものを探り当てる私なりの試みなのである。