5月13日 虐待と軍隊

 虐待写真のニュースが出てきてから、ずっと疑問だった。国軍のような戦略を持つべき組織がなぜ、このような証拠を残したのだろう。ラムズフェルドやウォルフォヴィッツを追い落とすためという見方をする人もいるが、それは写真が外に漏れてからのことのような気がする。イラクの現場で何が起きたのか。どういう心理のなせる業なのか。この疑問が解けなかった私は、思慮深いと思われる友人たちにメールを送った。答は後でまとめて掲載することにする。

今日はそのうちのひとつに言及したい。戦場では誰もが残虐になるものであり、日本軍も虐待死させた写真を格好の戦利品として持ち帰っていたという話だ。

 この返事をくれたのは、もう70代になる元新聞記者である。彼は亡くなった父とは同い年である。だが私は父から戦争の話を何も聞かされずに育った。むしろ女だてらにそういう難しい話に首を突っ込むな、というのが父の考えだった。だから東欧から帰国したばかりのころ、この大先輩との会話こそが私の知識の空白を埋め、政治意識を喚起するきっかけを作ってくれたのである。本来は、親子の間でこうした会話がなされ、戦争体験が語り継がれるべきだったのである。残念ながら、しかし、そうした会話は見事に封印されてきた。少なくとも都会では。

 さて、その大先輩からのメールの内容はこうである。彼が少年時代、近所の大工さんによくこういわれたという。

――ボン、ええもん見せたろか。

 「惨殺された捕虜の累々たる死体」だった。戦争帰りの大工は何枚もそれを持っていて、彼は得意気に少年だった彼に見せたがったという。そして、「自分も戦争に行ったら、こんなことをしなくてはいけないのか」と震え上がったそうだ。

 こうした経験がゆえに、イラクの米兵が、お土産としてあんな写真を欲しがる心理も

痛いほどわかるのだと書かれていた。そしてこう続く。

 「その後、初年兵は、まず中国に送られ、捕虜の中国兵を生きたまま銃剣で刺す訓練を

受ける、という噂が流れました。実際にあったらしいです。戦場で、弾丸の下を突撃するのも怖いけど、こちらの方が、僕を絶望的にしました」

 私は戦争に反対である。日本が国軍を持つことにも反対である。自衛隊のまま、いろいろな矛盾を抱えながら、日本のあり方を考えていくべきなのだと今でも思っている。

 アメリカにいると、多くの人々が「自衛隊を国軍にして、日本も普通の国になるべきだ」と発言する。永くいればいるほど、そう考えるらしい。たった9ヶ月の滞在でも、アメリカ目線を経験すると、そういう心理状態になるのはよくわかる。

 しかし、国軍を持つ国がいかに危険かを知ってしまった私としては、こういう考え方にとても抵抗がある。スハルト政権下のインドネシアやミャンマー(ビルマ)など、国軍が政治に関与して国民が不幸になった国はいくらでもある。日本も20世紀前半にその道をたどってきた。「暴力」を行使できる立場にある人間が権力のとりこになったとき何がおきるか。それは歴史を見れば明らかである。

 そして何よりも、戦場では虐待も正当化されることが危険なのである。戦争さえなければ心美しい人々も、集団心理と上官の命令の下に何でも行ってしまう。もしも私が母親だったら、息子を虐待するような人間にしたくない。それが平気な状況に置きたくない。

 これから先、日本では憲法改正論とともに、自衛隊のあり方について議論されることになろう。しかし、その前に一度日本の歴史を振り返る必要がある。当時のフィルムをとおして、戦争というものが、国軍というものが何かを考える必要がある。その上で、軍隊を持つことをみなが選択するのであれば、それは日本の運命である。だが、戦場の心理もわからないまま、自分たちの先輩たちがたどった道も知らないまま、ムードだけで自衛隊を国軍化することは、絶対にあってはならない。

 いろいろな国を歩きながら、私は常に日本のあり方を考えてきた。日本を愛する気持ちは誰にも負けないつもりだ。しかし、その愛国心が即、軍隊を持つことにつながる今の日本の空気はどこか違うように感じている。

娘や息子に虐待を強いるような国にしたくない ――。お母さんたちがこう発想できるようになったら、日本はすばらしい国になると考えるのは私だけだろうか。

5月6日 アフガンの医者

 同じプログラムにアフガニスタンから医者が参加していた。この彼が不思議な存在だった。ホームシックといえばいいのか、アメリカ嫌いといえばいいのか、ほとんど誰とも口を利かず、毎日アパートにこもったまま、自分のオブリゲーションが終わるとすぐに帰国してしまった。誰の目にも「不可解なアフガン人」と印象だけが残った。

オサマ・ビン・ラディンを見てもわかるように、アフガン人たちは男女を問わず美しく、実年齢よりも上に見える。彼も軽く30代半ばに見えていたのだが、実は29才だった。だったらいいとは思えないのだが、彼の行動は結果的に、すいぶん子供っぽかったのは事実だ。ルーマニアの同僚も、アメリカの仲間も、彼は医者だからエリートで大人のはずだと思ったらしい。職業柄、医者が成熟しているというのはまったくの幻想で、それは日本をみれば明らかである。50代以上のことはわからないが、40代以下だったら、まず医者は社会性がない。医学部に入る前に受験勉強に追われ、入ってからも実験につぐ実験である。そうした彼らが患者と向き合うために必要な人間性をどう養えばいいのか。患者の命をあずかる身である医者を人間として豊かにするにはどうしたらいいか。それを目指して日本では医学教育改革が行われたほど、日本では事態が深刻だった。

かの地ではホームステイの経験がないので詳しいことはわからないが、アフガニスタンのような部族社会では、長男だと、それだけでものすごく大切にされるのだと思う。何をやっても彼が一番という家族関係なのではないかと推察する。しかも医者であり、流暢な英語を操る彼は、かなり地位の高い家族の出のはずだ。救急病院で働きながら、彼はありとあらゆる分野を任されていたという。その分、自負も強い。

そんな彼がアメリカにやってきたら、ただの人になってしまった。彼が主役という流れにはならない。それも居心地が悪かったのだろう。とにかくアメリカ人が嫌いで、ストレスからか、救急病院に運ばれていた。

女子大生が肌を露にするのも耐えられなかったらしい。ジョージタウン大学の卒業生であるクリントンの肖像画を見て「彼は嫌いだ。悪い奴だ」とつぶやいていた。その理由は「モニカと変な関係になったからだ」という。

彼の人の評価は独特だ。一番のお気に入りは、ロシア人元外国官だった。リタイアしているくらいだから、もうそれなりのお年だが、彼は最初にアフガンの医者のところにやってきて、こう言ったという。「本当に申し訳ない。私の国がしたことを許してほしい」。以来、彼の中でそのロシア人はとてもいい人となった。

その彼がいよいよ帰国するというので、我が家で小さな食事会を開いた。帰国の1ヶ月前から急に元気で明るい人格に変わった彼は、アメリカ人抜きのその会で、初めて祖国について語った。私が知りたかったのは、彼がタリバンについてどう考えているかだった。

彼はオサマ・ビン・ラディンには2回会ったそうだ。といっても、じっくり話をしたわけではない。とてもカリスマ性があり、いい人という印象だったという。またタリバンから解放されたのはうれしかったが、北部同盟はタリバンよりも残忍で嫌いだ。北部同盟は何でも奪った。美しい妻がいれば奪い去り、すばらしい家があれば略奪した。少なくともタリバンは、略奪はしなかったのだそうだ。

――どうして彼はこの話をアメリカ人にしなかったのか。

実はこうした話は日本人ジャーナリストには知られていたが、ワシントンでは誰に話しても信じてもらえなかった。タリバンは悪者。アフガン人の自由を奪う野蛮人。そこから解放したアメリカは正しい。政府やメディアにこう刷り込まれた彼らの考えを否定するつもりはない。しかし、北部同盟はもっとひどかったという事実をも、アメリカの人々は理解すべきだ。タリバンを取り除けば終了ではなく、複眼的なまなざしを持ってアフガンの復興に取り組んでいれば、治安維持がいかに難しいか想像できたはずだ。

だが、当事者である彼が沈黙する限り、アメリカには何も伝わらない。せっかくのチャンスだったのに、実にもったいない話である。