大学時代の友人が再婚した。彼女はアメリカ留学を経て30歳くらいから国際機関で仕事をしているが、アメリカで離婚と再婚を体験したことになる。相手はいずれも日本人。だが再婚相手はやはりアメリカや海外赴任が長く、マルタイナショナルは感覚を理解できる人のようだ。しかも、もう成人した子どもがいるので、友人は子育てを経ることなく、いきなりステップマザーになったのである。
先日、彼女の夫が遺書を作成することになったという。再婚した彼には先妻との間の子どもがいるので、作っておくべきだということになったのである。その遺書が面白い。ありとあらゆる想定が必要で、さすがシミュレーション教育の行き届いたアメリカだと思い知らされた。たとえば、彼の不動産などの資産を妻に相続するとしたら、彼女が死んだときにはどうなるのか。息子に資産を残すとしたら、彼が結婚したときはどうなるのか。つまり、息子が死んだ場合、孫がいなかったら財産をそのまま、会ったこともないお嫁さんに譲るのでいいのか、それとも再婚相手が健在なら、その継母に移すのか、あるいは寄付するのか。そうしたシミュレーションを50年先まで行ったうえで、ありとあらゆるケースに対して、故人の「ウィル」を尊重するというわけだ。
これは妙案である。人生ゲームのように、自分と縁のある人々の順列組み合わせを考え、そこに故人の意思を反映させるのである。遺書というと縁起が悪いと考えがちだが、死んだ後も脈々と故人の考えが貫かれるのだから、それこそ「ウィル」なのである。日本でも皆、考えてみたらいい。一度相続したら、そこからラグビーボールのように、わけの分からない方向に流れていくのではなく、故人が納得のいく方向で財産が生かされるのである。
実は、この話が出たのは、私たちの共通の友人の近況話からであった。その友人の場合、彼女の家に資産があるのだが、夫との間に子どもがいないため、お母さんが相続に難色を示しているという。つまり、娘が早死にした場合、全額がその夫のものになると思うと釈然としないというわけだ。いっそ離婚でもしれくれれば、生前贈与も考えるのに、と彼女のお母さんはもらしているらしい。
こうした考えはよく耳にする。自分たちが築き上げてきた財産を血のつながった孫が受け継ぐならいいが、他人に持っていかれるなら別の子どもに回したい。日本の高度成長期を支えた親なら、当然の発想である。そして少子化が進む日本ではますます、こうした問題に直面することになるのであろう。
そこで、夫にならって友人も「ウィル」作成を考えるという。彼女の場合、縁ができたばかりのステップ・サンに、たとえば彼女所有のアメリカのアパートを譲るのか、それとも寄付を考えるのか。それとも実弟に譲るのか。だが、その夫婦には子どもはいない。寄付の場合、よほどその団体を吟味して、ここぞというところが見つからないと実行に移せない。
私はどうするのだろう。幸い私には姪がいるので彼女に譲ることにしよう。しかし彼女が結婚した場合はどうしよう。一人で生きていくなら多少の蓄えも役に立とうが、彼女がとんでもなく甲斐性のない男として別れるときに吸い取られたのではたまらない。
・・・などと皮算用をしてみたところで、現実的な問題は、それだけの資産を残せるかどうか。自分で食い潰して、せめて彼女のお世話にならないことがやっとかもしれない。
いずれにせよ、「ウィル」の作成は、自分の人生設計をあれこれ思い描く意味でも、日本で流行らせる価値はある考え方ではある。
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3月19日 大統領のうつわ1
今日はイラク攻撃から1年。タイミングを合わせたかのようにアルカイーダのNO2を包囲したというニュースが飛び込み、朝から報道番組はアメリカ外交一辺倒だ。ワシントンの教育機関に爆弾が仕掛けられたとかで、公立学校はみなお休みとなる。大学関係者もこの情報に腰が引けて、「ブッシュのせいで自分たちの日常がこんな脅威に置かれてしまった、いい迷惑だ」と怒る始末。私はといえば、図書館に通いもせず、ジョージタウンの町を歩いてそそくさと帰ってきた。
はるか台湾では、総統選挙がおこなわれる。その前日に総統・陳水扁が副総統・呂秀連とともに撃たれ、衝撃が走った。きっと彼に同情票が集まるだろう。瞬間、私は「自作自演」を疑ってしまった。というのも、今回の選挙は、前回負けた二人、つまり国民党の連戦党首が総統候補、親民党の宋楚楡党首が副総統候補として一本化しているため接線になりそうからだ。対して、陳氏は国際社会の注目を集める作戦にかけていた。レファレンダムを狙っていたのだ。「中国が台湾に向けて496基のミサイルを配備していることに対して直接投票を実施する」と総統権限で言い出していたのである。その延長線上の出来事だったから、ワシントンでも一部で、「自作自演説」が広がったのはもっともだ。私の直感的な反応はしかし、そこにあるのではなく、私自身、陳氏をあまり評価していないことから来ている。
私の陳水扁の力量への疑いはすでに10年前、90年代半ばに遡る。こうした考えのもち主はそのころ、きわめて少数派だった。95年、現総統が台北市長時代、当時の総統・李登輝が台北で投票するにあたって、彼はそこに随行していた。その腰巾着そのままの姿から、彼の指導者としての器を信用できずにいる私だったが、台湾の友人たちはこう言ったものだ。
「僕たちはそれこそ彼が戦ってきた姿を見てきたからね」
85年の選挙で遊説の際、呉淑珍夫人がトラックにひかれ下半身不随になった。この事故は外省人による政治的テロだったとの見方が主流だ。そうした事件を通して彼への支持は高まり、台湾独立機運とともに彼は台北市長、そして総統に選ばれるに至ったのである。彼は「台湾独立」を願う人々の期待の星だった。貧しい農民の子である彼が政界に踊りでる姿も台湾の高度成長と重なったし、妻の呉淑珍夫人が車椅子生活を余儀なくされてもなお、台湾のために闘い続けるという姿勢が人々をひきつけたのであった。言ってみれば、彼は時代の申し子だったのかもしれない。
くわえて国際社会の評価も高かった。欧米の経済誌かニューズマガジンで21世紀の期待される政治家100人(ビジネスマンも含まれていたかもしれない)の中に、彼はランクインしていたほどである。
しかし、彼はその内外の期待を見事に裏切った。就任してすぐ、台湾人の間では台湾の将来に対する不安とともに彼の指導者としての力量に失望感が広がっていった。02年に私が久しぶりに訪れた台北では、人々の間ではこんな日常会話が広がっていた。
「台湾でこのまま餓死するか、大陸に乗り込んで一発勝負をかけるか。それ以外に我々台湾人に生き残る道はない」
台湾経済が低迷する一方で、中国の発展には目を見張るものがある。独立どころの騒ぎではなく、自分たちがどう生き残るかが問題だ、というのである。日本同様、経済苦で自殺する人々も多いのだといっていた。折しも、陳総統は金融政策の失敗などからその支持率が政権発足以来、最低だった。
今回の事件がきっかけで、同情票から陳氏に投票する人が出てくるであろう。しかし、かつてのような期待はない。もっといえば、選挙に対して盛り上がりにかける。中国の勢いの前に、一部の推進派を除けば、かつて独立を支持していた人々は弱気になっている。
さりとて、対抗馬の連戦候補が当選すればいいかといえば、李登輝政権の副総統だった彼には、まったく人徳がない。悪しき国民党のイメージ、いわゆる「黒金政治」のイメージを払拭することは不可能だ。「黒」とは黒社会(マフィア)、「金」は金権政治を意味し、台湾の腐敗政治を意味する表現であるが、国民党はそのイメージが重すぎて、人々は投票に後ろ向きになるのである。かくなる上は、国民党が早く世代交代をすることである。台北市長の馬九英を上手に育てれば、まだ芽はある。マスクがいいこともあるが、彼には爽やかなオーラがある。これは、指導者として必要最低条件だと私は考えている。残念ながら、陳氏はそうしたオーラに欠けているのだ。
つくづく李登輝は大物だったと思わされる。昨年、マレーシアのマハティールが首相の座から退いた段階で、アジアの指導者が軒並みこつぶになった。時を同じくして、かつて朝貢貿易でこの地域を君臨した中国の台頭が重なることは、必ずしも偶然ではないだろう。
新しいアジアの歴史は中国を中心に流れが変わろうとしている。
3月16日 ワシントンの春
ワシントンDCに帰ってきた。もう、街はすっかり春の装いだ。モクレンと見紛う赤紫のマグノリアが、そこここに咲き乱れている。街路樹の中には桜の蕾が開き始めたものさえある。
父の訃報を受けてここを発ったのは2週間前。空港に向かう間、車窓が滲んで何も瞳に映らなかった。覚悟はしていたのに、どう受け止めていいのかわからない。危篤と聞いて2月に飛んで帰ったときには安定した状態が続き、1週間の滞在の末、父の生命力に感動した医師がアメリカにいったん戻ることを薦めた。それから10日あまり経ち容態が悪くなったのは突然のことだ。父の最期に私は間に合わなかった。すれ違いの親子は最後まですれ違い。私は最後まで親不孝な娘だった。
日本へ帰国するため、スーツケースを持ってアパートを出ようとすると、黒人の女性レセプショニストが、続いてマンションの管理責任者である白人女性が奥の部屋から出てきて、私をしっかりと抱きしめたことを覚えている。父が倒れてから長いこと日本との往復を重ねていたため、玄関の受付に交代ですわる彼女たちは、私が置かれていた状況を十分に承知していたのだ。
日本の伝統に伴う儀式を終えて再びワシントンDCに足を踏み入れた私を、この街は春の花々とともに迎えてくれた。どこのアパートメント入口の花壇にも、スイセンやチューリップ、パンジーが色とりどり満面の笑みを浮かべるかのように花を咲かせていた。あの時見た冬枯れのワシントンはどこへやら。このままだと、すぐに桜も満開となりそうな勢いだ。
昨年の夏からずっと木々を観察して考えているのだが、どうやらこの街と日本は土が似ているらしい。子どものころから路上で目にした植物が、そのまま存在している。どこの国を訪れても、植物の違いがゆえに、いやおうなしに異国にやってきたことを思い知らされるものだ。だが、欧州の町並みに似て石の建物が立ち並ぶこの地が、最初からとても懐かしく感じられるのは、そのせいではないかと思っている。
最上段の郵便ポストを開けると、いっぱい詰まったメールの中から“With Sympathy”と書かれたカードが2通届いていた。ひとつはマレー人女性の大学教授から、もうひとつは私を抱擁してくれた黒人女性のレセプショニストからだった。そして翌日、大学の仲間たちからフラワーアレンジメントが届いた。
春の訪れはなんと尊いのだろうか。父との別離は予想以上の哀しみをもたらした。しかし、私は異国のこの地でそれを乗り越えることができる。アパートメントの窓から風に揺れる花々を見下ろしながら、私はそう直感したのである。
3月16日 ワシントンの春
ワシントンDCに帰ってきた。もう、街はすっかり春の装いだ。モクレンと見紛う赤紫のマグノリアが、そこここに咲き乱れている。街路樹の中には桜の蕾が開き始めたものさえある。
父の訃報を受けてここを発ったのは2週間前。空港に向かう間、車窓が滲んで何も瞳に映らなかった。覚悟はしていたのに、どう受け止めていいのかわからない。危篤と聞いて2月に飛んで帰ったときには安定した状態が続き、1週間の滞在の末、父の生命力に感動した医師がアメリカにいったん戻ることを薦めた。それから10日あまり経ち容態が悪くなったのは突然のことだ。父の最期に私は間に合わなかった。すれ違いの親子は最後まですれ違い。私は最後まで親不孝な娘だった。
日本へ帰国するため、スーツケースを持ってアパートを出ようとすると、黒人の女性レセプショニストが、続いてマンションの管理責任者である白人女性が奥の部屋から出てきて、私をしっかりと抱きしめたことを覚えている。父が倒れてから長いこと日本との往復を重ねていたため、玄関の受付に交代ですわる彼女たちは、私が置かれていた状況を十分に承知していたのだ。
日本の伝統に伴う儀式を終えて再びワシントンDCに足を踏み入れた私を、この街は春の花々とともに迎えてくれた。どこのアパートメント入口の花壇にも、スイセンやチューリップ、パンジーが色とりどり満面の笑みを浮かべるかのように花を咲かせていた。あの時見た冬枯れのワシントンはどこへやら。このままだと、すぐに桜も満開となりそうな勢いだ。
昨年の夏からずっと木々を観察して考えているのだが、どうやらこの街と日本は土が似ているらしい。子どものころから路上で目にした植物が、そのまま存在している。どこの国を訪れても、植物の違いがゆえに、いやおうなしに異国にやってきたことを思い知らされるものだ。だが、欧州の町並みに似て石の建物が立ち並ぶこの地が、最初からとても懐かしく感じられるのは、そのせいではないかと思っている。
最上段の郵便ポストを開けると、いっぱい詰まったメールの中から“With Sympathy”と書かれたカードが2通届いていた。ひとつはマレー人女性の大学教授から、もうひとつは私を抱擁してくれた黒人女性のレセプショニストからだった。そして翌日、大学の仲間たちからフラワーアレンジメントが届いた。
春の訪れはなんと尊いのだろうか。父との別離は予想以上の哀しみをもたらした。しかし、私は異国のこの地でそれを乗り越えることができる。アパートメントの窓から風に揺れる花々を見下ろしながら、私はそう直感したのである。