2003年5月27日

駒沢のロータスロード

このところ夜のイベントが続いている。

19日は辰巳琢郎邸のホームパーティに招かれ、彼と共通の友人たちに久々に会い、夜中まで盛り上がった。驚いたことに辰巳夫妻は結婚18年を迎えたというのだ。20代から知っているだけに、私も感無量である。久しぶりに古澤巌くんのバイオリンを目の前で聞いた。演奏する予定のなかった彼は、自分のバイオリンを用意したいたわけではない。辰巳君がお嬢さんにせがまれたて買ってあげたお稽古用のバイオリンなのに、実に優しい音色で奏でてくれたのだ。ちょっと感動。「弘法筆を選ばす」とは、まさにこのことだろう。

26 日はある食事会にお誘いいただいた場所は浅草近くの秘密クラブのようなところだ。お食事はフレンチのコース。各界でご活躍の方々が顔をそろえ驚いてしまったが、その食事会は麻布高校の同級生の集まりだったのだ。月に一度はこういう会が開かれるという。先日亡くなった叔父が3人の子供を私立高校に通わせていた。サラリーマンにとっては経済的負担は軽くなかったはずだが「私立に行くのは、社会に出てから財産だから」と叔母を説得したそうだ。この説はかなり正しいと思う。叔父は名古屋の東海学園を卒業している。海部元総理や木村太郎さんの通っていた学校だ。私の父もそこを出ているのに、そういう助言を与えてくれなかったのは寂しい限りだ。私は高校まで公立に通った。

そういえば24日には母校都立新宿高校の同窓会が大々的に開かれたはずだ。府立六中時代からの卒業生が集まるのだから、お歴々がそろったに違いない。その世代は都立高校出身者も結束が固かったのだろうか。もっともある時代まではみな東大に進学していたのだから、同じ道を歩んだ人も多かったに違いない。エコノミストの紺谷さんは新宿高校の先輩だが、話を聞いていると、官僚や企業人でそれなりのポストに、高校の同級生がついている風だ。学生運動の嵐が吹き荒れた後に入学した私たちは骨抜きにされ、何にも考えないノンポリ集団だった。私の同学年も卒後も交流はあるのだが、社会を変革しようなどと考えなかった日々のツケで、社会にインフルエンシャルな仕事についている人は少ない。有名どころとしては、中村敦夫さんと坂本隆一さんがいるが、いずれも全共闘の洗礼を受けた世代である。

そして今日は駒沢のロータスロードのオープニングだ。246・駒澤の交差点を公園側に左折し、左側にそのワインバーがある。あいにくの雨なのに大盛況だ。入り口から所狭しと花が並んでいる。しかも芸能人から贈られたものばかり。それもそのはず、この店のオーナーは小川知子さんだからだ。

知子さんは若いころから芸能界で活躍されていた。私にとっては80年代ドラマで活躍された姿が最も強烈だ。当時キャリアウーマン役は彼女が独り占めだったし、「金妻」も印象深い。当時、六本木の美容院「フロムニューヨーク」でお見かけしたときは、眩しくてドキドキしたものだ。

それにしても花の贈り主が芸能界の大御所ばかりで驚いてしまう。私が子供の頃から歌手としてテレビに登場されていた知子さんの同級生は、みな第一線で活躍されているのだ。

その知子さんをなぜ私が知っているかというと、ご主人の伊東順二さんが「ナイトジャーナル」にゲスト出演してくださったのがきっかけである。その日のゲストが美術評論家の伊東さんとわかると「エー目が覚めると横に小川知子が寝てるの?」と若い男性スタッフが一同に羨ましがったのを覚えている。

相変わらず美しい知子さんは皆さんとのご挨拶に忙しい。店内にはカラフルなアクセサリーが並んでいる。他ではみかけないデザインなのに、値段は手ごろ。ちょっと、そそられる。

ようやく知子さんが気づいてくれて一言。

「あーどうもォ。あら、このスカート私のと同じよ」

その日は雨で肌寒く、昨年のオークスで高木さんに「変わっている」烙印を押された例のイッセイの赤いスカートを穿いていたのだった。

その後、坂田栄一郎夫人みつまめさんと一緒に自由が丘に繰り出し、中華をいただいた。来年5月に写真展を開かれるという。私自身はサントリー宣伝部時代、坂田さんとは二度お仕事をご一緒している。一度めはユーミンの、二度めはアートディレクターの石岡怜子さんのご指名だった。おかげで『アエラ』創刊以前から坂田さんと面識のある私だが、彼をずっと陰ながら支えていらしたのは妻のみつまめさんだ。パーティでお目にかかることはあっても、じっくりお話するのは今日がはじめて。馴れ初めをきっちり聞き出して、またまた感動してしまった。

2003年5月25日

晴れてうれしいオークスの日

25日の日曜日はオークスにでかけた。JRAのご招待で、熟女集団が馬主席で美しい馬にみとれつつ賭けるのである。

新宿西口で集合し、貸し切りバスで府中競馬場に連れて行ってもらう。目的地は私たちの世代はユーミンの「中央フリーウェイ」でおなじみの「右に見える競馬場」である。ちなみに「左はビール工場」のビール工場には、サントリーに入社が決まった12月、研修をかねて工場にでかけている。

私はサントリーに入社するまで、ビールが大嫌いだった。小学校5年生のときに社会科見学でアサヒビールの工場にでかけ、死ぬほど臭くて強いホップのにおいに、頭が痛くなったのだ。以来、父が食卓でビールを飲んでいるだけで、ホップの匂いが私の鼻を直撃し、不快になったものだ。

しかし、サントリーに入社した以上、ビールは宴会のイニシエーションみたいなものだ。恐る恐る工場に出かけたのだが、行ってみて驚いた。工場内でホップの不快な匂いはほとんど感じられないし、出来立てのビールの美味しいこと!11年も経てばブリワリーの技術が進んだのか、それともサントリーが特別だったのか。おかげで今でも私はビール党、お腹は大きくなるばかりである。

さて、オークスに話しを戻そう。昨年、エコノミストの紺谷典子さんにお誘いいただいて初デビューを飾った。木元教子さんと高木美也子さんもいらしていて「スパモニ」の女性コメンテーター勢ぞろいモードだった。他には神津カンナさんや山東明子さんなどがいらして、馬を見ながら紺谷さんに小泉政権の経済政策が正しいかどうかを聞いていらした。

チケット売り場で柳瀬さんにお会いした。「フィネガンス・ウェイク」を翻訳されたばかりの柳瀬さんには「ナイトジャーナル」にご出演いただいた折にご縁ができた。『レーニン像を倒した女たち』の出版記念会にも来ていただいたが、お目にかかるのは実に久しぶり。版画家の山本容子さんも石川せりさんと一緒にいらしていて、みなで寿司屋に繰り出したのだった。

で、今年はというと、紺谷さんはお忙しく欠席。句会のメンバーから黛まどかさんと増田明美さんに声をかけたが、二人ともスペインと北海道でNG、姫野カオルコさんは欧州に行かれる前で、高見恭子さんも日曜日はベビーシッターの都合がつかず、結局、女性編集者を誘ってでかけた。

前日間で心配された雨にふられることなく、今年のオークスはスタートした。中村うさぎさんが競馬に強いホストを連れてきていたのが目立った。彼の賭け金は5万以上で、我々とは桁が違う。最終的にはどのくらい稼いだのか摩ったのか、ちゃんとは教えてもらえなかった。小林カツ代さんもいらしていた。最近はいろいろな会でよくお目にかかる。女優の富士真奈美さんと吉行和子さんがいらしていた。吉行さんがお召しになっているジャケットは鳥居ユキさんのものだ。それに高木美也子さんの姿が・・・。

「今年もまた変わったスカート穿いてんのね」

と例の大きな声で豪快に笑われた。

今年、私が穿いていたのは、ミラノで調達したモスキーノのピンク・ストライプのバルーンスカートだ。彼女が「また」と呼んだのは、昨年はイッセイ・ミヤケの赤いバルーンスカートだったからだ。これは何箇所もつまむ形の縫製で、どこに着ていっても、年配の女性たちが「面白いスカートね。どうやって作ったのかしら」と触りにやって来る代物である。

で、高木さんに帰り際、尋ねてみた。

「どうでした?」

「4万円!」

「え、4万円儲けたのですか?」

「違うわよ、摩ったのよ」。

ちょっと安心。私も1万円ほど摩ったので、落ち込んでいたからである。来週のダービーに賭けて今日の分を取り返せないかな。

家に戻って占いの本を見ると、「今年は浪費がちになり、ギャンブルに走る年」とある。まずい、まずい。日本のみならず自分も不景気なのに、すでに消費行動が例年になく激しい。賭け金は小額にしておかねば・・・。

2003年5月16日

大人になろうよ

金曜日は東京新聞コラムの原稿の締め切り日である。いつも余裕を持って提出したいと考えているのだが、刻々と変わる情勢の変化や事実関係の確認作業に追われて、どうしても締め切り間際に提出することになってしまう。

今回もそうだった。SARSは“有事”であり、内閣に対策本部を置くべきだという提案をするにあたって各省庁に電話取材を重ねたら、果てしない時間を費やすことになってしまった。

その最たるものが厚生労働省とのやりとりだ。私の考えが杞憂にすぎず、すでに策が講じられていては申し訳ない。そこでいつくか確認をとろうとしたのである。たとえばSARSと疑わしき症状が出た患者はどこにアクセスしたらよいのか、現状では不親切なのでわからない。空港で各都道府県の窓口リストを配ってはどうかと聞いてみると、「それは検討しているが、間に合っていない」という。他にも質問を投げかけると「素人に余計なことを言われたくない」と怒り出す始末である。この高圧的な対応は、懇切丁寧な都道府県の窓口とはあまりにも対照的だ。厚生労働省は中央から行政指導する立場であって、民意を反映しようという意識はないことが露骨に伝わってくる。

細かい事実関係の確認が終わってようやく解放された私は、友人との待ち合わせ場所に急いだ。私が会おうとしたのは、大学時代から縁があった恵さん、現在は某女性誌の副編集長を務めている。彼女と私は同じ大学に通っていたわけではない。けれども、学生時代それぞれESSに属していた私たちは、あるイベントを通して知り合った。たしか「オープン・ディス」と呼ばれていたと記憶しているが、他の大学のESSと交換でディスカッションをするイベントが定期的に開かれていた。たとえば「安楽死」などをテーマに、英語で自分の意見を述べて話し合うというものである。

ESS に入る人のほとんどは、留学経験などはなかった。むしろ今は話せないが、英語を手段として自分の考えを伝えられる人になりたいという志を掲げて入部する。大学に席を置くのだから、クラブ活動を通して英語力を身につけたいという人々が集まっていたのだと思う。少なくとも東京女子大QGSはそうだった。

「オープン・ディス」は年に数回開かれていた。8人ずつくらいに分けられるので、同じテーブルにならない限り深く話すこともない。特に一年生のときには不慣れで不安。新参者同士、軽いライバル意識も含めた不思議なシンパシーを抱いて、一年生の存在が記憶に鮮明に残るものだ。中でもはっきりと覚えているのが恵さん。あとは俳優の塩谷君とも別の機会に同席した。あのうつろな眼差しと、何かあったらいつでも「SHIOYA」を思い出してね、と寄せ書きに書いたメッセージが個性的で印象に残った。現在、二人ともがメディアの中で活躍しているところを見ると、当時から原石はすでに輝きを放っていたということになる。

恵さんと友人としてじっくり話すのは実は19年ぶりかもしれない。3年前に一度、時間を共有したときは仕事の延長だった。20代半ばで彼女が大きなおなかを抱えていた姿は記憶に鮮やかだが、その時の息子さんがカナダに留学しているとは。人を育て上げた彼女の余裕が、私にはとても眩しく思えた。

この年齢になると、子育てを経験した女性はどっしりとしていて圧倒される。そして、どこか温かい。自分を犠牲にして子供の欲求を引き受けざるを得なかった日々が彼女たちを強く大きくしたのだと思う。もっとも誰もがそうした包容力を持ち合わせられるものではなく、恵さんは志が高く、年齢とともに上手に成熟していったからに違いない。副編集長というポストも彼女に別の忍耐力を与えたのかもしれない。本人も「私って意外と後輩を育てるのが好きかもしれない」と語っていた。

高校や大学の同級生の中には、他人の評価でしか自分を測れず、子供を見栄の道具にしてしまっている人も少なくない。そう女性たちと話すと、自己中心的で疲れてしまう。彼女たちが求めているのは、自分を肯定し、自分の生き方正当化してくれる存在なのだ。

7年ほど前、こんなことがあった。もう何年も話していなかった友人から夜中に電話が入り、夫を非難する話を一通り聞かされたのだ。子供のお受験に自分が必死になっているのに、旦那が同じボルテージにならず冷たかった、受験の失敗は夫の不熱心さにあるというのである。

こういう時、私の任は別の角度から光をあてて楽にしてあげることだと常々考えている。その夜も彼女が発想を変えれば、夫への不信感を払拭できると信じてこう話してみた。

「そんなことでご主人を責めちゃかわいそうよ。お受験は宗教みたいなところがあるから信者にならなかったご主人と貴女の間にはギャップがあるのは仕方ないよ。オウムの例でもわかるじゃない。麻原を信じている彼らを、外にいる私たちは理解できないでしょ」。

この瞬間、彼女はいきなり怒り出したのだった。オウム信者と自分を一緒にしたというのが、怒りの理由である。挙句の果てに「子供のいない貴女に話をした私が間違っていた」とまで言われてしまった。じゃあ、最初から私に電話してくるなよ、と思わず言い返したくなる。なんて失礼、“自己中”きわまりない人だろうか。

以来 7年、私は彼女が出席する会合を遠ざけ、電話も長くならないようにしている。どうやら彼女は他の友人たちの間でも重たい存在になっているようだ。

あの電話で彼女は自分が否定されたと感じたに違いないが、思えば「素人に余計なことを言われたくない」と怒った厚生労働省の役人も同じだ。自分が肯定されなかった時にいきなり牙を向く点では、昨今起きている不可解な犯罪と通じるものがある。悲しいことだが、日本人はどんどん幼稚になっている。

できれば友人たちには素敵でいて欲しいと思う。だから、もしも夫を亡くした友人がいれば、彼女のために仕事を探して奔走するし、ハンディを背負いつつ前向きに歩こうとしている人たちのことはいつでも応援する用意はある。けれども、お子チャマたちの自己正当化に付き合うのは御免だ。私ももう若くはない。残された人生、成熟した人々とお付き合いしたいと考えるのはワガママだろうか。

40 代も半ばなんだから、せめて同級生にはこう言いたい。

「みんな、そろそろ大人になろうよ」

2003年5月5日

ピアノの発表会

まもなく6歳になろうとする姪のピアノの発表会を聞きにいった。場所は新宿中央公園の近くにある区民会館だ。最年少で習い始めて一番日が浅い姪の名前はプログラムのトップに載っている。

迷ったのは花束をどうするかである。私の時代にも、弟の時代にも、子供の発表会ごときに花束は渡さなかった。愛すべき姪のためには演奏後、小さなブーケを持ってステージに駆けつけてみたい気もする。しかし、一番手の彼女だけが受け取って、他の子供が追随し泣ければ、姪だけが浮いてしまい、後でいじめられるかもしれない。子供のいない私には迷う瞬間である。

結果、ビデオ片手に花束は購入せず、会場に向かった。すると、後からやってきた人々は手に花を持っている。ブーケと呼ぶには簡易な数本の花を持っているのだ。どうしよう。

そこへ義妹の妹が小さな花を持って入ってきた。演奏後、ステージで渡してもいいかどうか確認している。どうやら、この先生の発表会では花を贈るのは恒例らしい。一番手とはいえ、これで姪は

驚いたのは、みながそれを受け取ることに、あまりに慣れていることだった。演奏が良かったかどうかに関わらず、儀式化していることさえ気になる。

本来、ピアノのお稽古は演奏を楽しむことを教えるべきであり、発表会は演奏を通して人を感動させるものだということを体験させるべきものだと思う。しかし、日本では頑張って練習したものを発表する場になっている。まる暗記を奨励する勉強の成果を競う受験の前哨戦のように存在している。

先日、ミラノで会った友人によれば、欧州の教育は全く違うという。フランスの小学校では、美術の時間に名画について、その画家の人生と絵のテーマについて論じた後、美術館に本物を見に行くのだそうだ。もちろん、それだけの名画が常に美術館に存在するフランスと日本の違いはある。けれども、私が小中学校で受けた美術の授業では、作者の人生や時代背景についての解説を教師から教えられた記憶はない。

NHK で放送されている「課外授業ようこそ先輩」で、その道を極めた人が母校で教える様子は教育の理想だとは思う。しかし日本の学校教育がそこまで到達するには数十年を要すると思うが、少なくとも芸術などのお稽古事は、表現することの醍醐味を教えるべきであり、親も先生を選ばねばなるまい。

そうは言っても、初の姪の晴れ舞台。他の生徒が演奏中に花屋に走り、第二部・連弾の演奏後、私は舞台の姪に花を渡したのだった。