2003年4月23日

六本木ヒルズ

六本木ヒルズのプレ・オープニングに行ってみた。あまりの人ごみに圧倒された。正式なオープンは2日後だというのに恐ろしく大勢の人々が押し寄せている。エスカレータの乗り降りでさえ、すし詰め状態だ。景気がよかった時代、お中元商戦真っ盛りのころのデパートに匹敵する。

かくも大勢の人々を集めたのは、各店舗が一斉に関係者を招待しているからだ。しかし、その招待状を持たない人間は、六本木ヒルズの中には入れない。入場者のチェックは厳重に行われている。そこに集まっているのは、「選ばれた人」なのである。人によっては、数箇所から招待状が届いていて、それをこなすのが大変なのだという。昨日、アントワープ・ダイヤモンド銀座店のオープニングに呼ばれた際、そこに集った著名人がそんな話をしていた。高見恭子さんのところには 10通近く、デイブ・スペクター夫人はホテル・グランドハイアットのレセプションに行くのだそうだ。その言葉どおり、六本木ヒルズを歩いていると、高見さんにばったり会った。彼女の紙袋は、招待状を持つ人にのみ贈られる記念品でいっぱいだ。同じく安藤和津さんもにも遭遇した。「8時から仕事なの。それまでに全部こなすの大変なんだから」と言いながら、招待を受けた店をすべて駆け巡っていた様子だ。

なにせ六本木ヒルズは広い。東京ドーム8個分と言うだけのことはあり、歩きまわるだけで十分に痩せられる。レイアウトがよくわからない分、余計に広く感じるのかもしれない。初めてディズニーランドにやってきて地図を片手に迷ったときと似ている。よその大学の学園祭に呼ばれて、あちこちの模擬店を訪れた学生時代も思い出される。そう、ここは一種のテーマパークなのである。

壮大な映画館には、多くの芸能人が招待されているらしい。椅子の作りなど贅沢にできていると評判だ。しかし、私自身は深夜上映もしていた「シネ・ヴィヴァン」が存在していたときの六本木のほうが好きだ。WAVEの地下にあった「シネ・ヴィヴァン」は知る人ぞ知るヨーロッパのいい映画をたくさん上映していた。グルジアの奇才・パラジャーノフ監督の映画を見たのも「シネ・ヴィヴァン」だった。たしか放送大学の高橋和夫先生も一緒だった。イランに詳しい先生が、パラジャーノフのことを教えてくれたのである。

森ビルは17年前からこのプロジェクトを進めていたという。ある日突然、WAVEがなくなると告知されるまで、恥ずかしながら私はそのプロジェクトを知らなかった。旧テレビ朝日も壊され、麻布十番からつながるのだと聞かされても、どれほどの変貌を遂げるのか、当時は検討もつかなかった。ここまで未来都市さながらの空間になってしまうとは。再開発とは聞こえがいいが、私の知っていた風景はすっかり消えてしまったのである。高層ビルにさえぎられ、ここのエレベーターホールから眺めることができた東京タワーはもうない。六本木駅から西麻布交差点に向かうまで、地上をまっすぐには歩けない。途中、エスカレータで二階に上がらないと、道を渡れないのである。麻布警察の向かい側にあった鈴木酒店は六本木ヒルズに移動すると貼り紙があった。繁華街にありながら、どこか下町の匂いを残していた六本木の人々の営みをすべて飲み込んで、六本木ヒルズは誕生したというわけだ。

丸の内や汐留の再開発に比べ、六本木ヒルズは宣伝が上手く、ずいぶんと話題になっている。昨夜の式典には小泉総理や石原慎太郎東京都知事も招かれている。その様子はニュースでも流されたが、それ以外にも式典があったそうだ。

「うちの主人は8時からなのよね」とは、最初の式典に出席した建築家の友人が隣に座った大宅映子さんから聞いた発言だが、どうやら式典の招待客にもランクがあるらしい。

森ビルの立ち退き要請を承諾した六本木の住民たちは、どの式典に招かれたのだろう。そんなことを思いながら、昔のたたずまいを残す店を一軒一軒確認しながら、西麻布へと歩いた。

2003年4月20日掲載 フセイン政権崩壊 欺瞞見抜く目を

 ブッシュ政権に何も進言できない日本政府もだらしないが、米国の策略に乗って報じてしまう日本のメディアも同様に情けない。

その典型が4月10日付朝刊の一面だ。全紙一斉にフセイン像が直角に倒れる写真を掲載した。本紙にも早々と「フセイン政権崩壊」「バグダッド陥落」の見出しが躍った。

 前夜テレビの中継で一部始終を見守った人は、その紙面に違和感を抱いたに違いない。像を倒そうと試みたのはわずか数人のイラク民衆であり、それを引き倒したのは米軍の戦車だったからだ。像の首に鎖をかける際、米兵が頭部を米国の星条旗で覆った瞬間を見た人も、読者には大勢いたはずだ。

なのに、本紙のどこを探しても、米軍の戦車や星条旗をかける米兵の写真はない。あるのは、笑顔の市民、焼け落ちたイラク国旗、破かれた大統領の肖像画、倒された銅像に駆けのぼるイラク人たち、花を贈られる英軍の女性兵士、そういった写真ばかりだ。民衆が自ら自由を勝ち取ったかのようである。おかげで、米国による空爆で家族と両手を失ったアリ君の痛々しい写真までもが、独裁政権崩壊に伴う当然の代償と映ってしまう。

 鬼の首をとったようにラムズフェルド国防長官は語った。「ベルリンの壁が崩れ、鉄のカーテンが落ちたのを思い出さざるを得ない」

  89年、東欧革命で民衆がレーニン像を倒した光景には世界中が感動した経験がある。その記憶になぞらえて、圧政の象徴であるフセイン像を倒した映像が世界中に配信されれば、「大義なき戦争」も民衆の勝利に見せかけることは可能だ。

 この作意は本紙編集者にも見透かせたはずである。数多あるフセイン像の中からパレスチナホテル前の像が選ばれた点も見逃せない。そこは各国報道陣の宿であり、しかも前日には滞在中の記者が狙撃され米軍が世界中から非難を浴びたばかりだ。そのホテルの真ん前でいきなり一部民衆が立ちあがりフセイン像を倒すのは出来すぎではないか。それが自発的かどうか疑わねばなるまい。これまでにも途上国のデモが実は扇動されていたケースはいくらでもあり、その経験則も働くはずだ。

ようやく翌日の朝刊に「市民蜂起、米軍が演出」という記事が出た。しかしえてして読者は写真の衝撃に引きずられるものだ。せめて、本紙10日付朝刊一面の写真説明に「米軍の装甲車が倒した」ことを明記してもよかったのではないか。少なくとも毎日新聞は社会面は星条旗の写真を大きく取り上げていた。  

入ってくる情報を真に受け、戦況や勝敗ばかりを追いたがるのは、伝える側にとってこの戦争がどこか他人事で、ゲーム感覚で観戦しているからとしか思えない。紙面構成者に求められるのは、戦争当事者の欺瞞を見抜く洞察力と歴史観だ。

戦勝ムードに沸く米国は、これからも武力を行使して中東地域の反米政権を壊していくだろう。再び戦争になれば同じことを繰り返す。せめて日本のメディアは冷静な分析を心がけてほしい。日本人が戦争への怒りを忘れたら終わりだ。

2003年4月19日

金毘羅で句会デビュー

かねて俳句に興味があった。アートディレクターの浅葉克己さんが娘さんと開いた個展のオープニングで辰巳琢郎さんに会い、ある句会に参加することにした。彼とは20代から縁があり、幼なじみのような存在だ。

百夜句会と名づけられた、その句会は恋愛の句を詠むことが条件で、主宰者は黛まどかさんだ。メンバーは辰巳さんのほか、増田明美さん、わたせせいぞうさん、坂東三津五郎さんなどである。今回は坂東さんが「四国こんぴら歌舞伎大芝居」に出演中なので、皆で金丸座にて「三人吉三」を観た後、句会が始まるころになっている。特別の日に参加できて、私にとってはなんとも幸運なデビューとなった。

国の重要文化財の指定を受けた金丸座は金毘羅宮のある象頭山のふもとにある。1835年(天保6年)に立てられ、現存する歌舞伎劇場としては日本最古の建物である。1976年に現在の場所に移転・復元。人力で動かす「廻り舞台」や「せり」などの舞台装置が江戸時代のまま残されている。昔ながらの観客席と舞台が「高窓」と呼ばれる明かり窓から差し込む光の中で浮かび上がり、「三人吉三」にはぴったりだ。通し狂言『三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)』は同じ「吉三」という名前を持つ三人の盗賊の因果を描く、黙阿弥の名ぜりふに彩られた名作だ。市川團十郎を座頭に、中村時蔵がお嬢、坂東三津五郎がお坊を演じる。お坊吉三は三津五郎さんにはまり役だ。

いやあ、歌舞伎はこうでなければいけない。

「四国こんぴら歌舞伎大芝居」の切符は旅行会社に買い占められ、正攻法で切符を手に入れることはかなり難しい。かぶりつきの席で観られるのも、ひとえに三津五郎さんのおかげだ。せっかくだから江戸の町娘風の着物を着て楽しみたいもの。翌朝には金毘羅詣を控えているので軽装姿でやってきていた。日ごろ運動不足の私が1500段も上って奥の院にたどり着けるものかどうか。讃岐うどんもたらふく食べたい。高松までやってきたのだから、やってみたいことがいっぱいだ。東京近郊にこんな芝居小屋があれば、もっと落ち着いて楽しめるのに。

さて、観劇の後はいよいよ句会である。事前に4句、芝居を観て1句考えておくことになっていた。恋の句であることが、この句会の特徴だ。なにせ新人なのだから、その場で考えるなどと器用にはこなせない。朝早く起きて考えることにした。恋をテーマにといわれれば、作詞を手がけていたころを思い出す。5・7・5におさめる作業は、曲を渡され、言葉をはめ込む作詞と作業が似ている。春の季語が入れば成功だ。

句会では作者を伏せて句を書き出し、各自がお気に入りの8句を選んでいく。その行程が一番楽しいのだと思う。そして発表――。私のデビュー作はいずれも人気だった。これもビギナーズ・ラックというべきか。正確な結果は2ヶ月後の句会で渡されるので、その際に公開しよう。 

今日は生まれて初めて作った、記念すべき5句をここに披露する。

春の季語で恋の歌を4句

    くちびるを重ねし髪に花吹雪

    君の香をしばしとどめん春の雷

    逃げ水を追うて二人のフェルマータ

    声かなた見上げて同じ春の月

こんぴら歌舞伎を見て一句

    盃や因果はめぐる朧月

2003年4月14日

モスキーノ

モスキーノの新しいショップが表参道骨董どおりにオープンし、そのレセプションパーティに出席した。

久しぶりに高見恭子さん、久保京子さん、秀香さんにお目にかかり、思う存分「フェラーリ」を味わった。やはりスプモンテはこれが一番だ。

朝の情報番組の一番は「スパモニ」、と言いたいところだが、視聴率トップの裏番組は「特ダネ」だ。その取材をかねてドン小西さんもいらしていた。彼は西麻布の住人で、コンビニや横断歩道でよくみかけていたが、今回、初めてじっくりとお話させていただいた。実に愉快な人だ。

「モスキーノもね、昔はもっと個性があったんだけどね」

と少し残念そうな口調で話したかと思うと、

「モスキーノは僕と同じ歳なんだよね」と自慢げに語る。

たしかに昔のモスキーノはもっと冒険があったように思う。それにもう少し、大人の服だったと記憶している。それが若者にも気軽に着られるデザインになって裾野が広がった。定番のハートに加え、ポップな花柄も種類が豊富になって、スーツなら仕事でも着られるのは楽しい限りだ。可愛いのに大人の色気を漂わせるモスキーノはお気に入りである。

私は子供のころから着道楽で、我が家は靴と洋服であふれている。玄関の下駄箱と寝室の棚にはパンプス、ブーツ、サンダル、草履がぎっしりと詰まっているし4畳の部屋にポールを5本打って、クリーニング屋さんのように服をつるしている。そこへ母の遺品の和服を桐の箪笥2棹とともに置いているというのだから、クローゼットを通り越して、テレビ局の衣裳部屋状態だ。

かつて西麻布の13畳半のアパートに住んでいた頃も大変だった。寝室はベッド以外、すべて洋服と靴やバッグで埋め尽くされていたのだ。衣裳部屋にベッドを置いているという表現が正しいかもしれない。当時、番組で共演していた森永卓郎が一言、「じゃあ、一部屋が芸能人で、もうひとつが作家の部屋なんだね」。実にうまく言い当てている。もう一部屋は、台所兼仕事場で、食器棚と本棚デスクでいっぱいになっていたのだ。おかげで洗濯機を置くスペースはなく、下着などは手洗いで、シーツなどの大物のために、六本木のコインランドリーに通っていた。その後、代々木のマンションに移って洗濯機を手にしたときには、嬉しくて嬉しくて毎日洗濯に明け暮れたくらいだ。

靴は木型との相性からシャルル・ジョルダン以外は受け付けないのだが、洋服の好みには変遷がある。流行に左右されないつもりだが、テレビに出るようになってからは、やはり時代の空気を反映している。

80年代半ば、「CNNデイウォッチ」でデビューした頃はノーマ・カマリとインゲボルグに、 NHK「ナイトジャーナル」の頃はT・ミュグレーとアイスバーグにはまっていた。ノーマ・カマリとミュグレーは、肩パットが大きくてウエストがしまっているのがお気に入りの理由だった。

ショルダーバッグがすぐに落ちるほどなで肩で童顔の私には、年齢を上に見せ、キャスターとして信頼されるためには肩パットが必需品だったのだ。子供のころから「お月さまにみたいにまん丸のお顔ね」といわれて傷ついてきた私は、テレビでの苦労が耐えない。ただでさえ横に広がるのだから、縦長に見せるために、前髪を立て、あごより下まで毛を伸ばし、襟のつまった服は絶対に着ない。何度か洗剤のCMオーディションに呼ばれたことがあるが、モニターに映った自分に驚いた。ライトのせいで実物以上に映っているのに、まるでアニメなのである。生活感がまるでない。これじゃ、選ばれるわけがない。そんな私がニュースを伝えるのだから、髪型と肩パットで迫力をつけるしかなかったのである

バブルがはじけてしばらく90年代前半まで、日本経済はまだまだ強気だったと思う。それを反映して、女性キャスターも、前髪を立てて肩パットの入った服が主流だった。いかにもバブルの象徴であるこのスタイルは台湾や東南アジアに飛び火して、日本で飽きられた後も数年、あちらの女性キャスターは一様にそのスタイルを踏襲していた。

一方でフェレッティやインゲボルグの花柄と、ディズニーのキャラクターをモチーフにセーターを作っていたアイスバーグにも惹かれていった。背伸びをした反動もあって、私にとっての癒しのアイテムだったのだ。 

イッセイ・ミヤケのプリーツプリーズを着るようになったのは、関西テレビ「ワンダラーズ」で大阪に通うようになってからだ。それまでプリーツプリーズというと、広告やデザイン系のパーティで、40代以上の女性たちが制服のように来ている服という印象しかなかった。誰もがあのプリーツ地の黒一色でその身を覆っているのが気持ち悪かったのだ。ところが、「ワンダラーズ」のスタイリストだった山崎氏がイッセイの鮮やかなオレンジのシャツを用意してくれて考えを改めた。実はプリーツプリーズには恐ろしい多くの色やデザインが存在したのである。しかも、皺にならずに洗濯機で洗えるのだ。いや、むしろ熱に弱いためドライクリーニングは良くない。洗濯機を購入したばかりの私が入れあげるには、十分すぎる条件が整っていたというわけだ。

最近はプリーツプリーズよりイッセイ・ミヤケ、それにモスキーノ、アンナ・モリナーリ、ユキ・トリヰにはまっている。サイズがぴったりというだけでなく、アーティストとしての技術にほれ込んで投資しているという感覚である。

とはいえ、デザイナーのこだわりも、経営が成り立たなければ続かない。T・ミュグレーが今年の春夏コレクションで引退したというニュースを知って衝撃を受けた。LVMHの傘下に入ったブランドとは対象的だ。モスキーノもユキ・トリヰも若者路線に転じていることと無関係ではないのだろう。

20年前の服も捨てることなく、ひたすら溜め込んでいるのだから、我が家は狭くなるばかり。食道楽は年齢とともに控えめになりつつあるが、着道楽だけは誰にも止められない。私が預金に向かない理由は、どうやらここにありそうだ。

2003年4月10日

SARS②  成田の検疫

帰りの便で再び要注意モードに切り替えた。機内で配られた英字新聞にはSARSを細菌兵器に見立てた記事が掲載されていた。

パリから東京へ帰る便もいっぱいだった。4月15日まではエアフラが格安料金で利用できるせいだろう。パリを夜中に出る便にはフランス人も少なくない。彼らは東京で乗り換えてニューカレドニアに向かうのである。

「マスクはSARS対策ですか」

隣にすわったお嬢さんが聞いてきた。彼女はパリに留学してそのまま現地企業に就職した日本人だ。広州の友人とメールでやりとりしたところ、公式発表よりもずっと感染者が多いそうだと教えてくれた。

「臭いものには蓋をしろ」とは旧ソ連の体質だった。そこは中国も同じである。自分の責任を問われるのが怖い官僚たちは、情報公開など考えない。ところが、一歩外に出れば、グロバリゼーション。経済活動だけでなく、SARSもあっという間に世界中に飛び火する。恐ろしい時代だ。

SARS パニックを通して現在の中国が抱えている矛盾が露呈した。中国はグロバリゼーションの波をつかみ、すさまじい勢いで経済発展を遂げている。一方で、国内、とりわけ地方の官僚体質はそのスピードから取り残された感がある。2008年のオリンピックを控え、常に国際社会に目が向いている北京の中央政府とは対照的だ。地方の村々では衛生事情も悪い。人と物の往来が激しい分、SARSも自由に移動する。なのに医療体制は世界水準からほど遠い。日本でさえもアメリカよりも10年は遅れているといわれているのだ。半年前、 SARSが最初に欧米社会で発見されていれば、いまごろワクチンも開発されていた可能性が高いという。

いずれにしても人の流れは誰にも止められない。ならば水際でどう止められるかにかかっている。だとすれば、一番重要なのは空港だ。厚生労働省がどう対処しているのか、私は非常に興味があった。

ところが、機内アナウンスを聞いて驚いた。「今回の旅行で東南アジア、アフリカを回られた方は検疫所で申告してください」。ちょっと待って。これではいつものアナウンスと同じだ。香港、台湾、中国は入っていない。SARSを意識するのであれば、東アジアに言及すべきではないのか。

検疫所も静かなものだ。いつものイエローカードを渡されるだけで、何も言われない。いくら欧州便だからといって、それ以前に中華圏をまわっていない保障はない。水際で止めずしてどうするのだ。こんな調子では、もう日本人の中にもSARS感染者は存在しているに違いない。

そもそもイエローカード自体がいい加減なのである。何か症状が出たら、どこの病院に行けばいいというリストが記されていないのだ。これには苦い経験がある。

1996 年夏。インドネシアから帰国してからしばらくして、私はおなかを下した。私の体質から、こういう事態は滅多にない。あるとすれば海外での水が原因だ。最初はセネガルの旅で、次は中国沿海部の旅の途中、次はバリ島から帰った時である。少しでも現地の人の生活に近づこうとする姿勢から、現地の人々の家庭で食事をするうち、水でやられてしまうようだ。

その夏もジャカルタでメガワティに初めて会い、帰国したばかりだった。現インドネシア大統領のメガワティは当時、民主化運動のシンボルで、ミャンマー(ビルマ)のアウンサンスーチーさんのような存在だったのだ。一方で日本国内ではO157が流行していた季節である。私は『ワンダラーズ』収録のため週に一度、大阪の関西テレビに通っていた。私のハラグアイが悪くなったのは、水が原因だけとは限らない。

とりあえず、病院に行こう。と思い立って向かったのが、港区広尾にある日赤病院だった。

無知だと笑われるかもしれないが、日赤はどちらに対しても万全だという思い込みがあったのである。以下は初診の受付で、若い女性の事務員とのやりとりだ。

「あなたはインドネシアに行っていたんですね。じゃあ、成田でイエローカードをもらったでしょ。風土病の可能性のある人を、隔離病棟のない日赤で見るわけにはいきません。都立荏原病院に行ってください」

「荏原病院ってどこにあるのですか」

「五反田です」

「すでに11時になろうとしていますが、今から行っても受け付けてもらえるのですか」

「そんなことは、こちらの知ったことではありません。自分で調べてください」

「じゃあ、今から行って、もしも診察できないと拒絶されたら、私はこの週末どうしたらいいのでしょうか。風土病という保障はないのですよ。O157だったら、私はこの週末、薬ももらえずに七転八倒しなければいけないのですか。風土病と診察されたなら、私の責任で荏原病院に向かいます。なので、診察だけでもしていただけませんか」

「できません。厚生省の指導で、イエローカードの人を診ることはできないのです」

「イエローカードには、日赤が受け入れないとも、荏原病院に行けとも書いてありませんよ。言わせていただきますが、厚生省の三文字を振りかざすことが私たちにはいかに無意味か、おわかりではないのですか。あなたたち病院関係者には絶対でも、私たち国民には何の威力もありません。むしろ薬害エイズ問題で、不信感のかたまりです」

ここまで私が言った段階で、近くにいた男の事務員が「じゃあ、診察だけ」と手続きを促した。診察を担当した医師も看護師もきわめて手際よく、O157の検査を行い、結果、風土病でもO157でもなかった。ただ水にあたっただけだったのである。しかし、タイミングが悪かった。当時の関西におけるO157ショックは、SARS恐怖に陥っている中国の状況に似ているように思う。

問題は成田の検疫である。イエローカードには、帰国後、何か症状が見えてきたときには、どこの病院に行くべきなのかを明記しなければいけない。日赤が受け入れないなどと誰が想像できたであろう。次に人が思いつくのは、東大のような国立大学の病院だ。都立荏原病院の名前を知らない人々も大勢いるのだ。空港の検疫所では各都道府県の受け入れ病院に電話番号書くべきだし、検疫所でもポスターとアナウンスで、受け入れない病院があることを知らせなければいけない。

SARS については、国立国際医療センターが受け入れ病院として名乗りを上げた。今日の放送で私はその名前を連呼したが、

おそらく他人事としてしか捕らえていないうちは届かないだろう。こういう事象に対して自分が無縁のうちから、シミュレーションする癖がつくようになると、日本人ももっと強くなれるのだが。

2003年4月4日

SARS①  成田発

SARS が流行っているというのに、イタリアに行ってきた。

3日の放送が終わった日、夜21時50分発のエアー・フランスでパリヘ向かい、ミラノに入ろうというものだ。

ここまで遅いと、他にフライトはほとんどない。成田空港の売店がシャッターを下ろしかけているところに滑り込み、マスクを購入。SARSも怖いのだが、飛行機は乾燥する。どこへ渡航するにも機内でマスクは必需品だが、万が一のために、余分に持っていくことにした。

用心深い私の考えでは、もしかしたら搭乗の際、マスクが配布されるのでは、と淡い期待を抱いたのだが、全くその気配はなし。それどころか、空港内でマスクをかけている人が一人もいないのである。この無防備が恐ろしい結果を生むのではないかと心配しつつも、搭乗ゲートに向かうと、もう一人だけ、日本人女性がマスクを着用していた。

機内が込んでいて驚いた。この便にはもともと欧州人が多い。くわえて観光客風の日本人もたくさんいて、ほぼ満席だ。この中でマスク着用者は二人だけということになると、感染者だと疑われそうで所在無い。こう発想してしまう私は、つくづく日本人だと思う。障害者に寛大な欧州やイスラーム社会とは違って、日本のような差別社会ではSARSにかかった人が名乗り出るのに勇気がいるだろう。らい病やエイズの時と同様、自分が社会から締め出されるに違いないと不安になるからだ。そんなことを考えつつ、朝5時から起きていた私は、飛び立つとすぐに深い眠りに落ちた。

エアフラの夜便は仕事が終わってから出発できるので便利だが、そこからの乗換えとなると、空港の指定された場所で時間をつぶすことになる。早朝の空港は気が抜けた炭酸水のようだ。くたびれた夜の終わりとやがて明ける朝をつなぐ2時間を、水底のようなカフェで過ごす。今回は機内で隣に座っていた日本人女性と会話をするうち、あっという間に時が流れた。

やがてセキュリティチェックを受けなおし、搭乗ゲートへと向かうと、空港はもう新しい顔に変わっている。早朝便で旅をしようとする人々で活気に満ち溢れている。ここは完全にEU。マスク着用者は一人もいない。

さすがの私もミラノの空港から市中へのマルペンサ・エクスプレスに乗った段階で、マスクをはずすことにした。イタリア滞在中、私の頭からSARSへの恐怖はすっかり消えていた。