田中康夫知事の不信任案が長野県議で可決された。就任当初は過剰なほど知事を持ち上げたマスコミも、今回は議会と知事、どちらに軍配をあげていいのか決めあぐねている。問題の本質がどこにあるのか見えにくく、端から見ていると、子供の喧嘩にしか映らない。
6日付東京新聞朝刊3面「核心」には、不信任の背景がコンパクトに記されている。知事の軌跡がカラー化されているのがわかりやすい。県民との「車座集会」。ガラス張りの知事室。「脱・記者クラブ」宣言。そして問題の「脱ダム」宣言。知事の奮闘がうかがえる上、議会との確執が時系列で見て取れる。
議員の肉声も拾っている。「知事は独善的。
県政を担う資質もない」「挑発的」「ダム問題は象徴にすぎず、理屈じゃない」等々。
同じような声をどこかで聞いた。一年前訪れたインドネシアの議会でだった。32年間に及ぶ独裁政権が終わり、民主主義が始まったばかり。政治は混乱し、ついにはワヒド前大統領が罷免された。
表向きには大統領資金疑惑が理由だが、議員の不満はきわめて感情的だった。一方のワヒドは議会を幼稚園レベルと発言し、閣僚の更迭を繰り返した。政策は二の次、両者は互いを口汚く罵った。
40年間で2人の知事しか存在しなかったという点でも、長野県は同国と似ているのかもしれない。政治が成熟していないのだ。
9日付「こちら特報部」は県議60人のうち3割強が建設業に関係していると指摘。県庁・県議・業者の濃密なトライアングルが出来上がっていたという。「脱ダム宣言」がそこにひびを入れたと評価をしている。
たしかに利権の構図を浮き彫りにするのに田中氏の果たした功績は大きい。だが、そこには「大衆政治家」の危うさが存在することを見逃してはいけない。環境破壊や公共事業を真っ向から否定する公約は、選挙民にとっても聞こえがいい。反対派と賛成派。二項対立を作り上げ、抵抗勢力を誇張する。マスコミもそこに乗っかったのではなかったか。結果、支持率を上げるのだが、政争に無駄なエネルギーを費やすばかり。政治が停滞してしまうことも多い。
「大衆政治家」にこそ地道な努力と実力が必要だ。斬新なアイデアを提示すると同時に、人を動かす能力も求められる。県民との対話も大切だが、議会とのコミュニケーションも疎かにできないはずだ。利権に執着する議員と闘うのであればなおのこと、知事自らがストイックな姿勢を見せなければならなかった。知事室で女性を膝の上に乗せて撮影する行為も、県政を任せた知事としては品がないと批判されても仕方ない。
かくなる上は知事選と県議選のダブル選で県民の民意を問うべきだ。その際、争点を明示するのはメディアの役割だ。感情的対立を煽るばかりでなく、そもそもダムは必要か否か。長野県民にとっての真の利益は何か。専門家による議論も不可欠だ。検証すべきことは多くあるはずだが、いまのところ有権者には届いていない。
2002年7 月14日掲載 田中知事対県議会 判断材料をもっと
2002.07.14