『アエラ』2002 年6月10日号掲載

「万里の長城」見える家

中国のマイホームブームを
引っ張る女性企業家
「万里の長城」を眺められる別荘群が北京郊外に生まれる。
仕掛け人は 36歳の女性。中国を大胆に変貌させている。

ジャーナリスト秋尾沙戸子

 全長6千キロ。「月から見える唯一の建造物」と言われる万里の長城。その歴史的大城壁を部屋で寛ぎながら我が物にしてしまおうという一大プロジェクトが、今、中国で進んでいる。
 北京市郊外、長城から東北へ1キロほど行った渓谷に、ギャラリーのように一戸建ての住居群を建設するというものだ。
「個性的な別荘を建てるという構想は、以前から温めていました。万里の長城わきの土地については、ゴルフ場を所有していた人から教えてもらったのです」
 こう語るのは敏腕不動産ディベロッパーとして知られる張欣(36歳)だ。中国の人々に新しいライフスタイルを提案することに生きがいを見いだしているのだという。

山頂に威風誇る長城

 別荘群は、最低でも1億円なのに、完成前から問い合わせが殺到した。長城が一望出来るということに加え、アジアの若手建築家たちに競わせるという発想も話題を呼んでいる。中国、香港、台湾、韓国、タイ、シンガポール、そして日本からも3名が参加している。その一人、隈研吾は言う。
「中国の現代美術には独自の哲学があり、ヨーロッパ中心主義に傾くこともありません。一般に高度成長期には『単純な近代』に走りがちなのですが、彼らはもっと大人で、手強いと感じています」
 東南アジアの建築家による作品はガラスやコンクリートを素材にした近代的なものが多い。一方、レトロ志向を現代風にアレンジしているのは、中国と日本の建築家だ。中国人建築家は版築という伝統的土壁を用い、日本の隈は竹をモチーフに仕上げている。現地で人気が高いのは、後者の2作品だ。そして、いずれ劣らぬ個性的な部屋からは、緑深い山頂に威風を誇る万里の長城がよく見える。
 匈奴の攻撃から守るため建てられた長城を眺め、歴史へ思いを馳せる――。この壮大な発想を具現化した張欣が、初めて北京っ子たちを驚かせたのは、97年に手がけた高層マンション群「現代城」の建設だ。
 北京は今、空前の「買房熱(マイファンラー)」、つまりマンションブームに包まれているのだ。近代的なマンションで暮らすことが、北京市民にとってのステータスなのである。張欣の手による「現代城」は、まさにその理想形といえた。
 天安門広場にほど近い工場跡地に建てられたこのマンション群はコンクリート壁に青、黄、赤、緑、オレンジの彩りと大きな窓が特徴だ。32階建てが5棟並ぶ様は圧巻である。敷地面積は平均180㎡。売り出された225部屋は即、完売した。張欣は言う。
「人々が豊かになり自由化が進んでも、北京には住みたい家がなかった。だから、自らこの物件を計画しました」
 v現在、中国は政府あげての都市作りに邁進中だ。とりわけ2008年のオリンピック開催を勝ち取った北京は、猛スピードで変貌し続ける。WTO加盟がそれに拍車をかけた。高速道路をはじめ、市内の道路網は、生命力を持った木の根のように広がる。古くからある文化施設や学校は郊外に移され、代わって摩天楼のように立ち現れたのは、近代的ビル群だった。

中国は都市づくりの旬

「都市にも青春時代がある。パリは19世紀、ニューヨークは20世紀前半、東京は20世紀後半にそれを経験した。北京と上海はこれから。21世紀を投影した都市作りの舞台は中国です」
 と隈は分析する。
 「買房熱」を支えるのは、急激な経済発展だ。富裕層に加えて中間層が育ちつつある。IT関連企業のサラリーマンならは15万円から30万円程度の月給を受け取っている。民間企業の経営者ともなれば、その3倍稼いでいても不思議ではない。「現代城」の購入者も、そうした人々だった。
 中国の住宅は長い間、国営企業に属していたが、97年から国営アパートの国民への払い下げが行われた。たとえば2人合わせての党歴が長い夫婦の場合、市価の1割程度で購入できた。さらに同じ年、融資に関する規制緩和が行われた。これにより、人々は土地や住宅を抵当に入れ、ローンを組むことが可能になった。ディベロッパーも一層開発の手を広げていった。
 経済発展とともに成長してきた中間層は、お仕着せの内装では満足しないまでになっていく。張欣はそこに目をつけた。
「人々の想像力は限られています。そこで、私はそれまで国営アパートしかイメージできなかった北京の人々に、家具や内装の見本をカタログにして、具体的に提示したのです」
「現代城」には「箱」だけ買って内装は自分の好みに選べるという「新しさ」があった。払い下げられた国営アパートはいずれをとっても狭くて画一的、個性など皆無。平等こそが共産中国のコンセプトだったからだ。ワンランク上のライフスタイルを、内装の個性で証明できる「現代城」は、まさにそこをくすぐったわけである。そんな「差別化」の究極に位置するのが、万里の長城が見える別荘ということになる。
 張欣の両親はビルマ生まれの華人である。東南アジアで起こった反共運動の嵐の中、中国に渡り、結婚した。そして、張欣が生まれた翌年から、文化大革命が始まる。外国向け出版の公社に勤めていた両親は、セクトの違いから離婚。母は村のキャンプで再教育を受けることになったが、外国生まれだったため娘を連れ、香港に渡ることができた。
「香港は大嫌いでした。昼間は蒸し暑い家電メーカーの工場で働き、
夜は学校に通った。自分の食いぶちを得るためとはいえ、工場では機械のコマとして働かされた」
 そんなある日、アメリカに移住した幼なじみが家に遊びにきた。「北京では同じように貧しかった彼が、いい服を着て、英語を流暢に話す。とても眩しく見えた。豊かさとは何かと考えました」

愛国心で「市場開放を」

 アメリカへと夢が広がった。しかし、縁故を持たない張欣が米国ビザを取得することは至難の業であった。代わりに統治国イギリスへ渡ることを決意する。5年間働いた香港から渡ったロンドンでは、奨学金を得るため必死で勉強した。ケンブリッジ大学に入り、大学院に進学して経済学で修士号を取得した。そして名門投資銀行ゴールドマン・サックスに就職する。
「その頃も、いつも中国のことばかり考えていました。パスポートの国籍は香港ですが、心は中国共産党にあったのです」
 4年間、世界各地を飛び回り、投資の対象を捜して歩いた。華々しい経歴を重ねながらも、彼女の中では、中国への愛国心が膨らむばかりだった。そして89 年、天安門事件が起き、彼女は新たな夢を抱き、祖国へ戻った。
 中国を市場開放したい――。長年の理想の発露をそう見出し、中国企業の民営化を手がけるベアリング社に移籍する。94年、すでに幅広く中国本土の開発を手がけていた今の夫と結婚。夫婦で新たに「紅石社」を設立した。中国を豊かにしたいという張欣の夢が、ここから実現していった。
「現代城」マンションで成功を収めた張欣は、97年の融資の自由化を機に、二つの大規模プロジェクトを始めている。万里の長城プロジェクトと、もうひとつは北京市のダウンタウンに建設した「SOHO・ニュータウン」だった
「SOHO(スモールオフィス・ホームオフィス)」とは、自宅にいながらにして仕事ができる居住空間のことである。このコンセプトもまた、中国では初めてだった。
「当初は早すぎると随分反対されながら推し進めたので、正直、不安でした。ですから売り出しの朝、鈴なりの行列を見たときには飛び上がって喜びました」
 張欣は中国でのビジネスについて、旧態依然とした体質との戦いに、最もエネルギーが費やされると話す。
「苦労は二つ。まずは金策です。国内で投資家を捜すのが難しかった。いまはシンガポール政府とプロジェクトを進めています。次に官僚主義の壁。縦割り行政の中で立場の違う人々を説得し、コンセンサスを得る作業には、心底骨が折れます」

NYで上場第一号に

 隈はディベロッパーとしての張欣の将来性をこう評価する。
「彼女は現代美術が資本主義の先端と接点を持ちうる、すなわち国際市場で勝負する武器になることに気づいているのが新しい。先日もアメリカの美術評論家を北京に招いて、例の別荘も見せている。バブル期の日本のディベロッパーには持てなかった視点ですね」
 張欣は昨年、新たなSOHOプロジェクトをスタートさせた。北京市民の「買房熱」をますますあおりつつ、さらに万里の長城プロジェクトなどの別荘建築で、中国人の「住」に対する意識をリードしていく。また一方で、中国をグローバルスタンダードのなかで外国に認めさせる努力も忘れない。
「紅石社」はニューヨーク証券取引所での上場を準備中だ。それを果たせば、純粋な中国民間企業では一番乗りになる。 (文中敬称略)