正月事始め

12月13日は正月事始め。年末の掃除、新年の準備を始める区切りの日である。

お世話になっている人々へご挨拶に行く日でもある。今日庵や不審庵、お茶の家元のところへは業者が挨拶に訪れ、花街なら踊りの師匠や料亭に挨拶まわりをする。

それゆえ花街の芸舞妓が色とりどりの着物を着て歩く姿は実に愛らしい。それをカメラに収めたいとカメラおばさんカメラおじさん、そして外国人観光客がコロナ前には花街に押し寄せていた。上七軒、祇園界隈、宮川町には黒山の人だかりができて、地元民にも芸舞妓にも迷惑な存在ではあった。

中止された昨年はさすがに訪れる人もいなかった祇園の花見小路に足を運んでみた。一力の前はさすがに疎らで、静かなもの。やがて家元、四条北のお茶屋さん周りを終えた芸舞妓、それを追っていたカメラおじさんが数名南下してきた。それでものどか。途中で警察が偵察に来たが、あまりの静けさに引き返したほどである。

私自身、色々なご縁で芸舞妓さんとお座敷でご一緒したことが何度かあるのだが、お座敷とは違う、普通のメークで淡い色の着物姿の芸妓さんや、髪はゆいながら小紋に蝶文のかいらしい帯を締める舞妓ちゃんたちの装いを観たくて、時々この界隈を訪れたくなる。

今年の気づきは、ヒエラルキーだった。一番若い舞妓ちゃんが先まわりして、暖簾を上げるのである。その後に続くお姉さんたちのために。こういう気遣いとか行動は修行の賜物。花街と宝塚くらいではないだろうか。もちろん、裏千家学園を出た女性たちも、こうした気遣いは徹底している。

今年の師走は暖かい。事始めは少し風が冷たかったが、それでも例年に比べて暖かい。ショールを羽織る芸妓も例年に比べて少なかった。加えて、クリスマスの帯が目についた。二人の芸妓さんの背に、それを確認したのだった。

四条通では、商店街の沿道に幕を貼る作業が進んでいた。祇園の風景は、事始めを機にガラっと変わる。ああ、今年もあと2週間余。何もなし得ないまま、歳が改まろうとしている。

 

侘助の花

侘助という花がある。

椿に似た、しかし、花びらは一重で、開き方も小さくラッパのような形をしている。蕾をたくさんつけるので、晩秋から春まで何度も花を咲かせる。

私が初めて侘助の白い花に出会ったのは、四半世紀も前、北観音山の吉田家のこの庭であった。夜に眺めたと思う。闇にふっと浮かんでくる可憐な花に、佇まいの素晴らしいこの家に誘ってもらった感動以上に、強烈な何かを私は植え付けられた気がしていた。侘助という響きのせいかもしれない。闇に浮きあがった白の群れは天から舞う雪にも見え、一瞬でも冬の京都に身をおいた私の心に、何か罪悪感めいたものを落とした気がしている。ひぐらし喧騒の中にいる東京では人間として大切なものをう失っているのだという、貘とした罪悪感。その感覚が、私を京都暮らしへと誘ったのかもしれない。

京都の新町通六角下る。毎年夏になると北観音山が建つこの町は、かつて両替商の三井家、松坂屋の伊藤家など、豪商の家々が立ち並んでいた。三井の土地には現在、逓信病院が建つが、私が東京から祇園祭に通うようになってからも、まだ松坂屋の伊藤家所有の建物は蔵などとともに残っていて、新町通りに長く幕が貼られているのがいかにも美しく、毎年、写真を撮っていたものだ。南北に伸びる新町通でも、この界隈だけ道路の幅が広いのは、そうした豪商が馬車を停めるためだった。

山鉾町の家々には、いわゆる京町家が数多く並んでいる。入り口の幅はさして広くなくても、奥が深く、途中に坪庭があるのが特徴だ。そして、さらに奥に構える蔵との間に、吉田家にはもうひとつ庭がある。そこに、この侘助が花を咲かせるのである。

京都で暮らすようになってしばらくして、私は年に数回、この家を訪れている。吉田家は特別で、誰でも中に入れるわけではない。縁のある人が招かれるだけである。祇園祭の折には窓枠が取り払われ、先祖代々受け継がれてきた屏風などを飾って見せるのが習わしだが、それも新町通から眺めるだけで、家の中に入って腰を落ち着けるなどということは、誰か親しい人に連ならなければ叶わないことなのである。

そんな特別な京町家に私がしばしば訪れた理由は、当主である吉田孝次郎氏が京都の商家の暮らしについて語る吉田塾を始めたからだった。私はその塾生として足を運んだ。当初は季節で移ろう町家の室礼などにだったが、次第に、先生のコレクション、小袖、更紗、朝鮮毛綴れなどをご披露いただき、その後の懇親会が楽しみとなっていった。コロナ前のことである。

その吉田塾が日曜日、最終回となった。コロナ禍では途切れ途切れとなっていた講座に一区切りつけて、仕切り直すということである。その記念すべき最終回に、侘助が一輪、咲いていた。私を京都にいざなった侘助の白い花。

その日も、庭の大きな侘助の木には、数え切れないほどの蕾が膨らんでいた。たった一輪の白い花が、私たちに一旦の別れを告げていたのだった。

この日の帯は、侘助文と言いたいところだが、花が開きすぎているかもしれない。椿と呼ぶには花は一重なので、私が勝手にそう解釈している。着物は葉っぱの小紋。葉が落ちる中、侘助が凛と花開いている様を表現したかった。

 

 

 

夜の二条城へ

なにより、外国人観光客で混み合う前の、ライトアップされた唐門と二の丸庭園を堪能できるのが嬉しい。次に、自分が歩いた後に光がついてくるという不思議な世界に突入。和服でも洋服でも色無地ででかけると、いろいろな文様が楽しめます。最後は、「食堂おがわ」の鯖寿司をお土産にして、城内では、アッシュの大きなカツサンド(岐阜県産の養老豚、500円)を頬ばるのがオススメ。ぜひ、おでかけください。
このイベントは、古くからある日本各地の伝統文化を見直し、革新的なクリエイティブやテクノロジーを掛け合わせる「JAPANESQUE PROJECT(ジャパネスクプロジェクト)」の一環としてご開催されているとのこと。企画したのは京都の会社で、1→10 (ワントゥーテン)。クリエイティブAIが生み出す“国内最大級”の巨大インタラクティブ・ランドアート、大人でも、ちょっとおもしろい。
青の着物は、ぼかしの色無地。金色地の栗文の帯は、ライトアップされた二条城によく合いました。あまりにキンキラしていて、銀座のヴィンテージ着物「かわの屋」さんがデパート催事に出した折に、なかなか売れなかった代物です。最終日まで残ってくれていて、私のもとに。お値段とっても可愛かったのに。

形見の赤黒で、KYOTOGRAPHIE 町家暮らし勉強会、五条坂登り窯、こいこい茶会へ

京都は昨日から急に寒くなりました。17日で閉会というイベントが多く、私自身も訪れるところ盛りだくさん。#KYOTOGRAPHIE  #誉田屋会場 の #シャネル#北観音山 で #町家暮らし の勉強会、五条坂の #登り窯、寺町茶舗 #蓬莱堂 での、こいこい茶会。その後、神明舎。さて、何を着る?

寒さから、濃い色を纏いたくなり、#kyotographie のロゴは赤黒、こいこい茶会は、はんなりでもないだろうから、こんな装いに。

襦袢も含め、すべて #母の形見? あるいは、孫の私用に祖母が用意していた? 母の桐たんすか押し入れのガンガンに入っていたものばかり。昭和の名古屋好みと思われます。コーデは、アキオのオリジナル。一つ間違えれば子どもっぽい花柄も、赤黒幾何学を合わせてみたら、粋な印象に。帯締めも縞々。

あ、草履は、#祇園ない藤 の赤を履いて行きました。バッグは、#ANANDA です。

文楽劇場へ

大先生がご出演されるというので、日舞の会を見に、大阪の文楽劇場まで。ご一緒してくれたのは舞の姉弟子S子さん。お酒解禁になったから、ワインとイタリアン。飛び込みだったけれど、美味美味。若者とのランデブーは楽しい。アプリ使っているかも。着物の向きを反対にしてくれたのだが、私にはようわからん。まだまだ暑いので、着物は単衣菊の小紋。

最高の「きんとん」は、できたて太宰府藤丸製

これまでの人生で一番の「きんとん」。水屋で作られた、できたてだから本当に美味。それもそのはず、亭主が太宰府の藤丸さんだから。向かって左から2人目がご主人です。コンセプトは、道真公が京都北野天満宮へ里帰り。

里帰りというかぎりは、太宰府に流された菅原道真公が京都へ、というところにつながるわけです。背景の軸は、太宰府天満宮の前宮司が道真の歌を書いたものらしい。

私が太宰府天満宮を参拝下のは令和元年5月1日。前夜は唐津でのお茶会に出て平成に別れを告げ、翌朝は跡見茶会のあと、太宰府天満宮に参拝したのでした。

菱の茶会

菱の茶会なるものにお招きいただきました。

こんなに着物を持っているのに、菱の文様、無いなあ。ま、30度超えで暑いし、かといって10月に絽というわけにはゆかず、透けない薄物となれば、萩の着物しかありません。定番、蝶の帯をしめて出向いたのです。

さて、床を見て、びっくり。水に浮かんだ菱の葉は、ホテイアオイを思わせます。葉の形が菱形であることから、そう呼ばれるようです。栄養が豊富で「水中の落花生」とも呼ばれるのだそう。福岡や佐賀の名産で、京都では、深泥池に生息しているそうです。

横に実が並んでいます。かわいらしい。フォーチュンクッキーを思わせる形状です。硬い皮の中の白い実が菱の実。今日の主役です。太宰府の藤丸さんに特注のお菓子で、盛り上がりました。

水屋で過ごした一日

昨日28日は織成館の茶会。朝からうろこ雲。午後から青空になったようだが、早朝から水屋で働きまくり。

おかげで今日は一日腿の前部分がパツンパツンとなり、痛いことこの上ない。早朝は平気だったのに、なぜに10時からこのような痛みが・・・。

着物は菊文に、奄美大島のハイビスカスで染められた櫛織の帯。最後の写真、背後霊は水屋から出てきた三人組。

白の上布に教えられたこと

この着物が私のもとにやってきて、2つのことを教わりました。

祖母の形見、白の越後上布。15年前、叔母たちと祖母の家で遺品の整理をしたとき、箪笥の中に眠っていたものです。彼女たちは大島紬や訪問日などを選び、夏の薄物には興味を示さなかったので、私が形見として持ち帰ったうちの一枚です。宮古上布と並んで越後上布は高価だと聞かされました。そうとは知らず、私はこの着物を手に入れて、とても嬉しかった。祖母がこの着物を纏っている姿は記憶にないのですが、私の知らない祖母に会える気がしたのでしょう。

最初は、祖母の夏帯をあわせて着ていました。深い翡翠色の帯。日焼けして色あせしていたので裏返してかがってもらい、締めていたのです。上布の着物は果たしていつの時代のものか。祖母の着物は時として縫い糸が弱ってほつけてしまいます。縫い直すなら一度洗い張りに、と呉服屋さんに預けたところ「雪晒し」にしてくれたので、真っ白になって返ってきました。見違えるように真っ白に。それまでは、薄いグレーのような印象だったのに。

「雪晒し」とは、雪の上に布を晒してきれいにする手法。後に現場を見に新潟までお連れいただき、眩しいほどの一面の雪原に反物を次々広げていく光景を目の当たりにしました。薬品を使うわけではありません。自然に任せるだけで、あそこまで白くなるとは――。オゾンの力、おそるべし。先人の知恵に感動しました。

白すぎたら白すぎたで、自分の顔が赤黒く見えてしまうと悩みながらも、盛夏には上布を纏っていた私。ほぼ毎年訪れていた京都の祇園祭の宵山で、上布を涼しげに纏う女将さんたちを見て憧れていたからです。

ところが、その白い上布で歌舞伎座を訪れたときのこと。帰る夜道、寒いと感じたのです。8月20日くらい、第三部を観終えた後、日比谷線で六本木駅で下車した21時過ぎのことでした。若手の納涼歌舞伎が開かれ、中村勘三郎丈と坂東三津五郎丈が頑張っていたころです。日中の陽射しに従い、白の上布を選んだのに、夜風は微妙に秋の気配。麻のサラサラ感が寒いのです。私のからだにまとわりついているはずの上布が妙によそよそしく、かすかなる冷気が私のからだを直撃するのです。おそらく洋服を着ていたら、気づかなかったでしょう。ビルが乱立する東京にいても、上布を纏えば季節を感じることができる。これは驚きでした。

日中の陽射しは真夏でも、夜になると忍び寄る秋の気配。歌舞伎座の帰り道に秋を感じて以来、8月末、夜まで過ごすときには絹、すなわち絽の着物を選ぶようにしています。

絹のきものが温かい話は、また別の日に。

 

重陽神事

9月9日のこと。

上賀茂神社の重陽神事に参列。本殿の前に進むだけで祓われる気がします。実にありがたい。

いつもなら、圧倒的な静寂の中、大木に宿る鳥の囀りが心地よく耳に届き、やがて空高く飛ぶ烏の啼き声に神々の気配を感じとる日でもあります。そのたびに八咫烏伝説を思い出すのですが、今年は烏相撲が中止になったせいでしょうか。烏が上空を訪れず、ツクツクボウシが数匹、力強く夏のフィナーレを訴えようとしていました。

実はこの日、30度。洛北であるにも関わらず、早朝から強い日差し。菊文の生紬をまとった私の背中にじとっと汗が滲みます。直会は菊酒。金の酒次から土器にも菊の花びらがこぼれます。神気をおびたお酒と菊花を口に含むと、延寿が約束された気持ちになり、洛中へと急いだのでした。