きものの写真はインスタに随時あげています

『京都で、きもの修行』を読んでくださり、ありがとうございます。

本には1カットずつしか写真を掲載できなかったのですが、日々、あるいは過去の和服の写真は、インスタグラムにあげています。季節ごとのアキオ・チョイスをお楽しみくださいませ。

https://www.instagram.com/akiosatoko/

 

大樋焼 十一代 大樋長左衛門と次期十二代 奈良祐希  初の二代展「祈器(きき)」  @麻布台ヒルズギャラリーカフェ

能登半島地震を受けた北陸の作家たちを応援する展覧会のひとつらしい。先月末の初日、東京に行った折に訪れました。
十一代とは俳句、そしてエンジン01文化戦略会議でご一緒してきたご縁。『京都で、きもの修行』のカバーイラストを描いてくれた、わたせせいぞうさんも。祖母の結城紬を褒めてくれた故・坂東三津五郎丈も、句友です。すごい才能の人々ばかり。
なかでも「進化する男」として最初に頭に浮かぶのが大樋年雄さん、十一代です。今回もやってくれました。多数損壊した歴代作品の破片や断片をコラージュした「転生茶碗」を作り上げたんです。
十二代の「Bone Flower」は私も大好きで京都で個展を開かれた時に小さな器を購入したのですが、今回は、復興への祈願を込めて「能登ヒバ」で制作されています。
能登地震から半年もたたないうちに、これだけの挑戦をされていたのかと、会場に身を置くだけで涙が出てきます。
気球のような茶室は、被災地域で実際に使用されている1時間あまりで設営できる「インスタントハウス」。中を茶室にアレンジされています。先日、こちらで茶会も開かれた模様。
展覧会は23日まで。東京にお住まいの方々は、ぜひ訪れてください。感動します。(今日17日は親子のトークショーが開かれています)

もんたよしのりさんお別れコンサート

もんたよしのりさんとは、関西テレビの報道番組「ワンダラーズ」で2年間半にわたって、ご一緒しました。昨秋、72歳の若さで旅立たれ、その追悼コンサート@神戸新聞のホールへ向かったのです。

往きの電車では、体調不良でつらかったのですが、コンサートやライブハウスでの「もんた節」と、あの素晴らしい歌声を聴いたら、パワーチャージしてもらった感じ。さすが、もんたさんです。

MONTA isMONTAと名付けられた追悼コンサート。会場にはアフリカから持ち帰ったものやギターや、パネル写真が飾られていて、その一枚を見て、思い出したのでした。もんたよしのりさんも、鳥居ユキさんのファッションショーに出た事があるという事実を。

コンサートである以上、和服は避けた私。鳥居ユキ先生の黒いワンピで出向いたのでした。伊勢神宮の御垣内参拝でも大丈夫な、黒のローブモンタント風。

なんという偶然! ワンダラーズでご一緒していたときは、未だ鳥居ユキ先生には出会っていないのでした、私は。その後、もんたさんがモデルに選ばれ、その後から私が情報番組のコメンテーターとして先生のお洋服を借りるようになったのでした。なのでランウェイを歩いた、もんたさんのことは知らないのだけれど、ユキ先生とのご縁は、そこから繋がっていたのです。

東京に行くと、西麻布の長谷寺(永平寺別院)に時々参拝する私。ダンシング・オールナイトがヒットする直前に、悟りを追求するもんたさんも通っていらしたと聞いていたお寺です。タイミングは違っても、同じ人に、同じお寺に吸い寄せられていく。人の縁は、そんな風に遠巻きに繋がっているようにも思えます。

最後に聞かせてくれたのが遺言ソング。自分の死を予感していたかのようなメッセージもカッコ良すぎて、泣けてしまいました。誰もがたどる道だから、笑って送り出そう、そうなんです。

やっぱり、もんたさんはカッコよかった!

その確認とともに、改めて、御冥福をお祈りいたします。

写真は、のちほど

双龍のカーデガン@上御霊神社

徹夜して歳旦祭に出たあとは、いつもなら家に直帰して仮眠後、羽子板づくしに着替えるのですが(詳しくは、『京都で、きもの修行』を参照)、今年は池に龍神が宿る神泉苑に参拝。仮眠の時短のため、双龍のカーデガンを纏って、上御霊神社に参拝。献じたお餅と記念撮影したかったので。その後、神明舎に向かったのでした。

最下段、一番左のお餅に、秋尾沙戸子の名前、確認できます。

もんたよりのりさんのご冥福をお祈りします

#もんたよしのりさん の、あまりに突然で、早すぎる旅立ち。残念でなりません。よりによって、母と同じ解離性動脈瘤だなんて・・・。昨夜から「もんた節」が頭の中をぐーるぐる。
もんたさんとは90年代後半、関西テレビ「#ワンダラーズ」で司会をした間柄。深夜の報道討論番組で、最後は生ピアノで閉める構成でした。セットにお金かかっていますよね。
彼の洞察力、半端なかったんです。本質をつく一言、どきっとしました。彼の語りは説得力があって、教祖のようなオーラを放っていました。調査に来た税務署員が信者になってしまうほど、聞き入ってしまうんです。若いころからのエピソードはどれもこれも奥深くて面白すぎ。番組収録後の食事会も充実していました。
でも本当は偉大なるシンガーなんですよね。パーティで彼の生歌を初めて聴いたとき、心底スゴイと思いました。アフリカを旅して、酋長に気に入られるの、わかります。言葉が通じなくても、ソウルが伝わるから。
まだ心の整理がつきませんが、心よりご冥福をお祈りします。合掌

ユキトリイ2024春夏コレクション

4年ぶりの、#YUKITORII 2024年春夏コレクション。鳥居ユキ先生と、はこだて未来大学の美馬のゆりさんと。10月13日金曜日、晴海のショールームでランウェイショー終了後。

纏っているのは、#ユキトリイ 2023秋冬コレクション。バッグは #アナンダ。写っていないけどバレエシューズもオレンジ色で #アルシュ。カチューシャは #アッカ です。

誕生日は、虎を纏って

引き籠りで顔マンパチ、慣れない自撮りでボケボケ写真の投稿、どうぞお許しを。記録と割り切り、現在の自分を修正なしでアップいたします。

8月10日、ひとつ歳を重ねました。今日まで生あることに感謝しつつ、丁寧な暮らしを心がけます。

原稿がいよいよ間に合わないかも状態になったので今日も引籠るべきでしたが、某お料理教室と重なり外出。夏らしい、出汁と食材が一級の手間暇かけたお料理、頂いてきました。

寅の日生まれ ゆえ、お誕生日には 虎のスカート を纏って。

ブラウス、ベルトは #YUKITORII スカートは #GUCCI カチューシャは #acca

 

灌仏会 (花まつり)@東京

今日は #お釈迦様のお誕生日。お釈迦さまが生まれた #ルンビニ にある花園ようなお洋服で、#永平寺別院長谷寺(ちょうこくじ)へ。

今朝まで東京。#花御堂 のお釈迦様に #甘茶 をかけられるお寺を探したら、ありました、西麻布に。10時から法要に間に合うよう出かけたら、お堂にあげてくださいました。曹洞宗 永平寺の法要 を拝見するのも、東京での灌仏会も初めて。

京都では、#妙心寺 や #六角堂 で手を合わせ、京都仏教会の「お釈迦様を称える夕べ」に参列していました。ルンビニのお花のアレンジはお寺によって色々で、それを拝見するのも楽しみ。写真の花御堂には、境内のツツジや牡丹も入っていました。

ルンビ二のようなお洋服は、#ユキトリイ の2022春夏コレクション #フラワーガーデン。折しも明日はキリスト教のイースター。このお洋服は復活祭にもふさわしい気がします。

森英恵さんのご冥福をお祈りします

東京女子大の先輩でもある森英恵さんがいち早く世界的デザイナーになりえた裏に、占領期に日本へやってきたアメリカ将校夫人の存在があります。明治神宮隣にできた「ワシントンハイツ」のような米軍家族住宅は戦後、「日本人の衣食住をアメリカ化」する役割を果たします。住空間から畳が消え、和服を捨てて洋服に走るのです。
将校夫人の衣服縫製を依頼された森英恵さんは、将校夫人たちが持ち込む型紙を通して、丸いフォルムを覚えます。それらは、彼女がドレメで学んだ型紙と全く違ったのでした(拙著 第9章 有閑マダムの退屈な日々 参照)。その後、日本は空前の洋裁ブーム。アメリカに残されている占領期の日本の地方紙には、雨後の筍のように、洋裁教室の広告がぎっしり掲載されていたのをこの目で確認しています。
私も80年代終わりに、香港やバンコクでお気に入りの洋服持ち込んで、同じフォルムの服を作った経験があります。香港男子は私の服を解体して型紙をとり、縫い直して返却してきました。当時のアジアはまだまだ貧しく(90年代に入って目覚ましい成長を遂げるのだが)、彼らは先進国から来た客の情報をむさぼるように吸収しようとしていたのです。占領期の将校夫人からしたら、森英恵さんの「ひよしや」は、そんな店だったのでしょう。
ハンカチやトイレタリーなど、ライセンス事業であらゆる商品にハナエモリの蝶々が溢れた時代、正直、辟易して目をそらしたこともありました。でも、80年代に買ったVIVIDの赤いスーツとトロピカル風スカートは、いまも手元に残しています。
25歳で結婚した私に財力はなかったけれど、もしも富裕な一族に嫁ぐようなご縁があってドレスをオーダーしていたら、どんなデザインだったかなあと、森英恵さんの旅立ちを機に妄想してしまいました。
先輩のご冥福を、心からお祈りいたします。合掌
追記:文庫版『ワシントンハイツ』はデジタル版として販売されていますが、単行本・文庫本ともに新しい紙の本をご所望の場合は、神明舎で受け取ることができます。ご連絡くださいませ。

三宅一生さんのご冥福をお祈りします 1

ドイツ語のプリーツプリーズの本に、20世紀末の私のマンションの様子が掲載されています。カメラマンの都築響一さんの連載「着倒れ方丈記」プリーズプリーツ編で取材を受け、それが転載された形です。写真はママでなく、一部を掲載(母の形見となった桐たんす、削ったばかりでピカピカです)。
なで肩の私はキャスター時代、肩パットのある服を選んでいました。NHK「ナイトジャーナル」では、ティエリー・ミュグレーを購入していたのです。高島屋がライセンス契約をし、スーツなど日本人にあうデザインが豊富にあったころです。
その後、週一の関西テレビ通いと東南アジア取材モードになると、プリーズプリーツが主流になります。アジア圏では足を隠せるロングスカートが好ましいのと、移動にかさばらないのとで。(民放はクレジットが入るので、番組衣裳はスタイリストさんが借りてくれていたので)。
このプリーズプリーツ、東京では最初、クリエーター系女性の服で、どこか遠い感じでした。制服と呼びたくなるほど、パーティに行くと、お姉さまたちが黒のドレスに身をまとっていたのです。次第に色のバラエティが増え、私にも似合う色が制作されるようになって、この世界にはまっていきます。
東京の「よしおか」でも講座を持っていらした染司の吉岡幸雄先生には、「からだに優しいシルクを着るべき、アキオさんみたいに化繊を着たらあかん」と嫌味を言われていましたが、プリーズプリーツのワンピとカーデガンのコーデ・エクササイズは、和服の帯と着物のコーデの基礎になっています。
いまでも手元に残しているのに、なぜ着ないかって? お腹が出ているからです。プリーズプリーツは着る人のフォルムに忠実です。特にワンピを着ると、おなかの出っ張りが仇となるのでした。
ドイツ語版のこの本に登場する面白い柄、ほとんど私の手元にあるの、恐ろしいです。少し涼しくなったら、ご供養の意味でも、久しぶりに袖を通してみましょうか。おなかを引っ込める努力とともに。
表参道のお店でイッセイさんと交わした会話については、また改めて。
合掌