プロフェッショナル再放送

もしも夜更かしされているなら・・・
1時28分よりNHKで、プロフェッショナル 仕事の流儀「“普通”を極めし、その先に~日本料理人・森川裕之~」が再放送されます。
例によって、私が瞬間的に映り込んでおりますが、とても良い番組なので、ご高覧をオススメします。

森英恵さんのご冥福をお祈りします

東京女子大の先輩でもある森英恵さんがいち早く世界的デザイナーになりえた裏に、占領期に日本へやってきたアメリカ将校夫人の存在があります。明治神宮隣にできた「ワシントンハイツ」のような米軍家族住宅は戦後、「日本人の衣食住をアメリカ化」する役割を果たします。住空間から畳が消え、和服を捨てて洋服に走るのです。
将校夫人の衣服縫製を依頼された森英恵さんは、将校夫人たちが持ち込む型紙を通して、丸いフォルムを覚えます。それらは、彼女がドレメで学んだ型紙と全く違ったのでした(拙著 第9章 有閑マダムの退屈な日々 参照)。その後、日本は空前の洋裁ブーム。アメリカに残されている占領期の日本の地方紙には、雨後の筍のように、洋裁教室の広告がぎっしり掲載されていたのをこの目で確認しています。
私も80年代終わりに、香港やバンコクでお気に入りの洋服持ち込んで、同じフォルムの服を作った経験があります。香港男子は私の服を解体して型紙をとり、縫い直して返却してきました。当時のアジアはまだまだ貧しく(90年代に入って目覚ましい成長を遂げるのだが)、彼らは先進国から来た客の情報をむさぼるように吸収しようとしていたのです。占領期の将校夫人からしたら、森英恵さんの「ひよしや」は、そんな店だったのでしょう。
ハンカチやトイレタリーなど、ライセンス事業であらゆる商品にハナエモリの蝶々が溢れた時代、正直、辟易して目をそらしたこともありました。でも、80年代に買ったVIVIDの赤いスーツとトロピカル風スカートは、いまも手元に残しています。
25歳で結婚した私に財力はなかったけれど、もしも富裕な一族に嫁ぐようなご縁があってドレスをオーダーしていたら、どんなデザインだったかなあと、森英恵さんの旅立ちを機に妄想してしまいました。
先輩のご冥福を、心からお祈りいたします。合掌
追記:文庫版『ワシントンハイツ』はデジタル版として販売されていますが、単行本・文庫本ともに新しい紙の本をご所望の場合は、神明舎で受け取ることができます。ご連絡くださいませ。

三宅一生さんのご冥福をお祈りします 1

ドイツ語のプリーツプリーズの本に、20世紀末の私のマンションの様子が掲載されています。カメラマンの都築響一さんの連載「着倒れ方丈記」プリーズプリーツ編で取材を受け、それが転載された形です。写真はママでなく、一部を掲載(母の形見となった桐たんす、削ったばかりでピカピカです)。
なで肩の私はキャスター時代、肩パットのある服を選んでいました。NHK「ナイトジャーナル」では、ティエリー・ミュグレーを購入していたのです。高島屋がライセンス契約をし、スーツなど日本人にあうデザインが豊富にあったころです。
その後、週一の関西テレビ通いと東南アジア取材モードになると、プリーズプリーツが主流になります。アジア圏では足を隠せるロングスカートが好ましいのと、移動にかさばらないのとで。(民放はクレジットが入るので、番組衣裳はスタイリストさんが借りてくれていたので)。
このプリーズプリーツ、東京では最初、クリエーター系女性の服で、どこか遠い感じでした。制服と呼びたくなるほど、パーティに行くと、お姉さまたちが黒のドレスに身をまとっていたのです。次第に色のバラエティが増え、私にも似合う色が制作されるようになって、この世界にはまっていきます。
東京の「よしおか」でも講座を持っていらした染司の吉岡幸雄先生には、「からだに優しいシルクを着るべき、アキオさんみたいに化繊を着たらあかん」と嫌味を言われていましたが、プリーズプリーツのワンピとカーデガンのコーデ・エクササイズは、和服の帯と着物のコーデの基礎になっています。
いまでも手元に残しているのに、なぜ着ないかって? お腹が出ているからです。プリーズプリーツは着る人のフォルムに忠実です。特にワンピを着ると、おなかの出っ張りが仇となるのでした。
ドイツ語版のこの本に登場する面白い柄、ほとんど私の手元にあるの、恐ろしいです。少し涼しくなったら、ご供養の意味でも、久しぶりに袖を通してみましょうか。おなかを引っ込める努力とともに。
表参道のお店でイッセイさんと交わした会話については、また改めて。
合掌

蜷川有紀さん個展、日曜日まで

あれは4年前ーー。有紀さんの個展レセプションに出席すべく渋谷公園通りを歩いていると、あれ? 三代目龍村光峯夫人。中に入ると、あれ? 能楽師の河村晴久さん。ここは京都だった?
もちろん、女優や作家がたくさん押し寄せて、東京組もいるんだけど、この京都率の高さは何? と思ったものです。その日は、猪瀬元知事との婚約発表の場でもありました。
猪瀬さんはノンフィクション作家の大先輩。他方、有紀さんとは、服飾デザイナーの鳥居ユキさんのご縁(写真の服もユキ先生のアイリス柄)。朝の番組コメンテータとしてYUKITORIIのお洋服を借りていたたためご招待を受けるようになった東京コレクション。年に2回著名な方々とお目にかかるうち有紀さんともお話するようになり、しかし、ある日、絵も描かれると知って驚きました。さらに、あの猪瀬さんと再婚するというニュースは、目が点!の衝撃でしたが。
舞台「サロメ」が強烈で、女優としての存在感、若いころから注目していました。が、ご本人は子どものころから絵描きになりたかったとか。前回は薔薇一色の印象。実はダンテの『神曲』に挑戦していたのだと知り、感動を新たにした次第。これからの展開が楽しみ!
我家の壁は収納でぎっしりなので、小さめのを購入できればと期待したのですが、どれもこれも欲しいのは、全部赤丸。特にお気に入りの少女の絵は、みんなに愛されているみたい。やはり個展は初日に行かないとだめですね。
そのうち猪瀬さんが会場来られて、例のごとくマイペースぶりを発揮。それを上手にいなす妻ぶりも微笑ましく、最後は、猪瀬さんご自慢の赤いテスラに乗せていただき、西麻布までご一緒したのであります。
個展は日曜日まで。外出したら渋谷駅で下車して、ぜひBUNKAMURAへ。

 

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進化し続ける男

関東の皆さま、ぜひ #日本橋三越 へ。
日展文部科学大臣賞受賞記念・#第十一代大樋長左衛門 展 は17日月曜日まで。
「進化しない男は嫌いだ!」と息巻いていた40代。「君は男に対して厳しすぎる」とよく言われるのですが、当時は特に、前例踏襲主義の官僚やメディア関係者、サラリーマンに苛立っていました。
そんな中、「#大樋年雄」 は「進化する男」として輝いていた友人の一人。そして今回の個展で、20年を経てもなお!進化し続けていることを私は確信したのでした。茶入も、木葉天目も富士山の茶碗も、気になるものは約定済みでしたが、刺激をいっぱい受けるので、ぜひいらしてね。
【追記】
彼の進化の陰には妻の存在があるのです。彼にとって最大の理解者にして、私にとって最高に眩しい存在。この日も素敵な和服姿でお迎えくださったのですが、私は仕事モードの洋服で訪れたので並ぶのが恥ずかしく、別の機会に和服で2ショットをお願いするつもり。

虎のマスクで神農祭へ

一部FB友の間で流行りの?車内自撮りに挑戦。マスクのベージュの部分が虎です。ケイタ・マルヤマ製。
最近になって、誕生日が「寅の日」であったと知った私は、大阪の神農祭へ。初参拝の神農神社は製薬会社が密集する地域にある神社で、御祭神は神農炎帝と少名彦さん。23日9時半に到着した時はすでに前年の笹を持った人びとによる列ができていて、びっくり。
その光景は、十日ゑびすに似ています。でも笹についているのは張り子の虎一頭。文政5年コレラ流行鎮静化の為、薬と共に張り子の虎を授与したところ疫病が鎮静化したことが由来だとか。
来年は寅歳ゆえ、私は社務所で金の虎と金の笹を求めました。黄色の虎柄御朱印帳袋も購入。折しも10時から始まった神事を本殿前で拝見。おみくじ引いて退散しようとしたところ、境内の外に出て、またまた驚き。長蛇の列は、コロナ前の祇園祭で長刀鉾粽を求める列に酷似。ワンブロックぐるりと囲むほどの長さになっていたのでした。早起きして正解!
その後、私は京都に引き返し、車折神社の火焚祭、京都御所の一般公開最終日に駆け込み、白雲神社に参拝。さすがに疲れました。
あれ? 新嘗祭はどうしたの? はい。私は一足先に上賀茂神社の相嘗祭に参列して新穀の白酒(しろき)を頂き、すでに感謝を捧げておりました。

最高の「きんとん」は、できたて太宰府藤丸製

これまでの人生で一番の「きんとん」。水屋で作られた、できたてだから本当に美味。それもそのはず、亭主が太宰府の藤丸さんだから。向かって左から2人目がご主人です。コンセプトは、道真公が京都北野天満宮へ里帰り。

里帰りというかぎりは、太宰府に流された菅原道真公が京都へ、というところにつながるわけです。背景の軸は、太宰府天満宮の前宮司が道真の歌を書いたものらしい。

私が太宰府天満宮を参拝下のは令和元年5月1日。前夜は唐津でのお茶会に出て平成に別れを告げ、翌朝は跡見茶会のあと、太宰府天満宮に参拝したのでした。

緙室SEN

室senがうめだ阪急でフェアをされるというので、大阪へ。私のわがままを聞き入れ、ゴールドのバッグを作ってくれたデザイナーの千原啓子さんと記念撮影。

鯖を喰らう女

コロナ禍で、ランチのみ外食を続けている。お昼にガッツリ魚や鶏肉を食べ、夜は家であっさり。知り合いのお店もお酒を出せないので、ランチのみの営業が増えたからだ。

もう一つの理由は、飲食店の火力にある。鯖を焼くのも、チキンを焼くのも、家のキッチンでは時間がかかる上、家中に匂いが蔓延してしまう。だから、焼き物は外で食べる。これは以前から続けてきたことだ。

ふと気づくと、週に一度は焼鯖定食。おかげで、「いつもありがとうございます」というセリフが飛び出す。こちらはコロナ禍まで訪れたことがなかった。三条通りのまんざら亭だ。脂ののった鯖が半身、ものすごい火力で焼かれて目の前に出される。突き出しが色々着いてくるのも嬉しい。ひじきを煮るのもごぼうを炊くのも簡単だが、一人だと食べきれない。冬ならまだしも、夏は日持ちがしない。ゆえに、こうして数種食べられるのがありがたいのだ。

一人で訪れるのでいつもカウンターにしていたが、今日は窓際のボックス席に座らせてもらった。窓からは京都文化博物館別館が見える。明治時代、辰野金吾が設計したレンガ造りが青空に映えて美しい。早起きして拝んだ東山のご来光が、この青空を予言していた。