2020年正月 初釜式へは梅文に母の古代裂色紙集文帯で

私の中では、一月七日の初釜式までがお正月。今日は祝日感覚なので、世の中、普通に仕事が始まっていて驚きます。

人日の節句に上賀茂神社を訪れると、婦人会が作る七草がゆを頂けるのですが、初釜式、最近は午前のお席に呼んでいただいているので、今日庵に直行。今年は神明舎によって、和久傳の鰯とともに七草がゆを頂きました。

着物は梅文の訪問着。正月から春にかけて、よく着ていますが、母の古代裂色紙集文帯(黒留にあわせていたもの)を締めると、格があがります。6年前の装いと同じ。

本当は若冲の着物を着るつもりでしたが、白地の着物に想定していた帯が地味な気がして、梅文に。ブリブリしても見えるので、初釜式にこの着物を着るのは、今年が最後かもしれません。

2020年正月 お正月の普段着は羽子板づくし

晴れ着ではなく、お正月に家で着る小紋を捜したころ、出会ったantiqueです。羽子板文の小紋羽根の帯は4年ほど前、セールでみつけました。羽子板モチーフの帯留は、2年前かもしれません。昨年は、この小紋をどこかにしまい込んで着られなかったので、ここまで羽子板尽くしは初めてかもしれません。

翌日、ある方の家に招かれたら、羽子板のお皿に羽根の箸置き。この着物で出向かなかったことを後悔しました。

いつか東京の羽子板市に着ていくのが目下の野心。今年実現するでしょうか。

新春のお慶びを申し上げます

神社への参拝は夜もしくは早朝が理想です。

暗い中で鳥居をくぐり、やがて空がしらじらとしていく中で、目に見えない存在に手を合わせるのは、いかにも幻想的で清々しい気持ちで満たされます。昨年末の伊勢神宮、新年元旦の上賀茂神社で、そうした機会に恵まれました。感謝です。

しばらくは引きこもりが続くと思いますが、どうぞお見捨てなきよう。今年もよろしくお願いします。

皆さまのご健勝を祈りつつ・・・。

2020庚子歳正月

京都の大晦日

京都は大晦日も忙しい。松飾などは28日や30日にそろえるとして、つきたての鏡餅は大晦日に購入。その後、神社にお献酒。年越しそば。例年は八坂さんの朮詣り。除夜の鐘撞きと続く。これまで和服で過ごしてきた私ですが、今年は事情があって初洋服。

毎年、錦のお米屋さんで買っていたお餅。昨年から大丸地下に切り替えたのだが、朝一に訪れて、びっくり。ものすごい行列ではありませんか。去年までこんなことなかったのに・・・と後ろに並ばれたご婦人が電話でご家族に報告されていました。同感であります。

さて、今年はこの日の消印有効で送る書類作成が終わっていなかったために年越しそばは日没前に頂くことにしました。訪れたのは家からほど近い麩屋町の河道屋さん。こちらのお蕎麦、お茶会などで小さい椀で頂くことはあっても、本店でお蕎麦を頂いたのは初めてなのでした。そうです、子どものころ頬張っていた蕎麦ぼうろでおなじみだったというのに。で、初体験のこの日に注文したのは天ぷらそば。

ちなみに、昨年は、八坂参拝の前に、四条通で出雲そばを訪れ、和服で、蟹入りを食していました。八坂参拝前なら出雲そばを頂くのが理にかなっているのです。同じアングルでも、やはり1年で老けたのがわかってしまいますが(目ぢからが違う)、戒めとして昨年の写真も掲載します。

2019年12月 和文化サロンにクリスマスモードで

日本文化について語り合うサロンにて。今年もまた、八千代先生のクリスマスコーデに注目。ご了解を頂いて、掲載させていただきます。このあと、女性全員で集合写真を撮影。皆さんの了解を得ている時間がないので、和服2ショットのみ切り取りました。私が前に出ているのは、後ろが壁だから。これ以上下がれなかったのでした。先生に前に出てくださいとも言えず。

帯のお太鼓は2年前の写真です。

 

根津美術館へは、源氏香の小紋に、赤と緑の葵文の帯で

23日まで開催中の江戸の茶の湯、川上不白生誕三百年へ。

今回は、和服で新幹線に乗り、その足で東京神保町での書塾稽古に。黒を選んだのは、墨がつくのを恐れてのこと。

なぜ着物を着ているかといえば、18日早朝の新幹線で京都に戻り、10時から会議、午後からお茶会というscheduleだから。新幹線で楽だからと洋服を着ると、和服に必要な何かを忘れてしまうので。こういうときは、和で通し、洋服はニットワンピースとウルトラライトダウンをスーツケースに入れて移動します。

季節柄、クリスマスカラー葵の帯を締めています。シーンによって、出す面を換えて。17日の書展も、このコーデで。21日にホテルで開かれるサロンには、ギフトボックスの帯を締めます。

緑の帯揚の地紋はワインボトル。クリスマスカラーの帯締めは、ぎおん井澤屋さんで見つけました。

中村哲さんのご冥福をお祈りいたします

写真を探すのに時間を要したので、いまごろの投稿をお許しください。

私が中村医師にお目にかかったのは2000年秋、第12回アジア・太平洋賞の表彰式会場でした。大賞はアメリカ人に持っていかれましたが、特別賞を日本人3名が受賞しております。

このときのご縁を生かしてアフガンを訪れたなかったこと、いま悔いています。ぶれることなくアフガンのために尽力された先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。