蟻とキリギリス

 米誌タイムの「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた隈研吾さん、おめでとうございます。
 3ヶ月も前の話で恐縮だが、6月は東京に1週間滞在。
 ミッションのひとつは、建築家の隈研吾さんに富家宏泰氏(京都の戦後を作った建築家)を知ってもらうこと。五輪の後、ワクチン打って再び海外行脚に入る前、彼をつかまえるなら、いましかない。ランチの前日、まずは内覧会へ。
 かねて東京五輪は開催されないと予測していた私は(理由は地震か富士山噴火、パンデミックとは考えなかった)、スタジアムを設計した隈さんに妙な後ろめたさがあって、ここ数年の活躍を追っていなかったのだが(あ、東大の最終講義、原先生の回だけ聴いた。上野千鶴子の回はパス)、内覧会を見て、うちのめされた。
 見せ方が上手なのもある。だが、その作品群に圧倒されるのだ。いま放送中の朝ドラに出てくる能舞台は彼の90年代の作品。根津美術館竣工のころは時間的に余裕があった。おそらく歌舞伎座を手掛けたころから、「フライング・アーキテクト」は世界中を飛び回り、日本にいても分刻みの日々になる。その結果がコレ。
 先日、FRaUウェブの連載コラムの挿絵を描いてくれている漫画家・東村アキコさんが「スッキリ」に出たときも、彼女が30代、子どもを抱えて馬車馬のように働いていた話が出てきた。「同時連載何本も抱えてきたころに比べて、いまは隠居?っていう感じ」と語ったアッコちゃん。ドラマ化されるほどのヒット作いっぱいの陰には、そうした働きっぷりがあるのだ。
 結局、アキオサトコは、キリギリスだったね――。このところ、私の頭の中をこんな言葉が木霊している。
 ま、脳動脈の石灰化がみつかったとき、医師に「50代でこんなひどいのは見たことない」、霊能者に「還暦まで生きられない」と同じ日に脅されて慄いたのもある。だから無理しない優雅な暮らしを選んだ結果、延命できたかもしれない。が、ここで蟻さんにならないと、ただのオバハンで終わってしまうよ。このところ、そんな恐怖心に覆われている私。
 そういえば、東京では「働き方改革」と声高に叫んで、土日働かせない出版社も増えていて仕事しづらいのだが、皆でキリギリスになってしまって、大丈夫かな、日本。
追伸)2枚めの写真は隈さん考案の木製トレーラーハウス。

祖母の家

京町家に憧れがあります。郷愁というほうが正しいかもしれません。名古屋の祖母の家を思い出すからです。洛中の町家のように苔むした坪庭があるわけでもないけれど、それでも、夏座敷に涼しげな室礼が幼いころから好きでした。寝そべったときの、いや素足で歩くだけでも、籐の網代のひんやりとした肌ざわりが、私に「和の夏」を教えてくれていました。

まずは神棚にお水を、仏壇には御仏供さんを供え、私が生まれる直前に旅立った祖父のために、祖母が木魚を叩きながら読経するのを横で聴いていたことも、東京で社宅暮らしをしていた私にとっては、貴重な体験でした。

麦茶をやかんに入れて沸かすときの香ばしい匂い。冷やすのが目的でやかんに占拠された洗面台は、ペットボトルなどなかった時代の光景です。廊下には、赤だか水色だかの、折りたたみ式のボンボンドリームベッドが置かれていて、時折、庭に出してその上に寝ていた覚えがあります。高度成長期、庶民のモダニズムの象徴というのは大げさでしょうか。あの当時、祖母にとっては自慢の品だった気配があります。

流行っていたとはいえ、幼い私でも、ボンボンドリームベッドのビニールはベタっとする、と知っていた気がします。寝そべるなら、籐の網代の上が気持ちいいと、子どもなりに感じ取っていたのではないでしょうか。

祖母の家は叔父の代襲相続で従弟のものとなり、あっさり人手に渡ってしまったのですが、誰も興味を示さなかった、あの網代の敷物はもらってきたらよかったなあ、といまごろ悔やまれます。祖母の上布の着物や夏帯は手元に残ったのですが。

祖母の家で過ごした経験も、私の京都暮らし願望へとつながっているのです。

重陽神事

9月9日のこと。

上賀茂神社の重陽神事に参列。本殿の前に進むだけで祓われる気がします。実にありがたい。

いつもなら、圧倒的な静寂の中、大木に宿る鳥の囀りが心地よく耳に届き、やがて空高く飛ぶ烏の啼き声に神々の気配を感じとる日でもあります。そのたびに八咫烏伝説を思い出すのですが、今年は烏相撲が中止になったせいでしょうか。烏が上空を訪れず、ツクツクボウシが数匹、力強く夏のフィナーレを訴えようとしていました。

実はこの日、30度。洛北であるにも関わらず、早朝から強い日差し。菊文の生紬をまとった私の背中にじとっと汗が滲みます。直会は菊酒。金の酒次から土器にも菊の花びらがこぼれます。神気をおびたお酒と菊花を口に含むと、延寿が約束された気持ちになり、洛中へと急いだのでした。

金縛りシート

東京の知人と電話で話す。東京はコンサートホールによっては密が生じているらしい。オーチャードは厳しいが、サントリーホールは入口に体温測定器すらなかったという。いや、京都も1800人もの観客を入れたと友人がFBに書き込んでいた。

コンサートの間、話はしなくとも、隣の席の息遣いは聞こえてくる。もしも突然、咳をされたらどうしよう。彼がマスクをしているからといって、ウィルスはその合間を縫って、私のところに到達するかもしれない。大柄の人だったりしたら、私との距離は本当に短くなる。

まだコンサートに行く勇気もないくせに、あれこれ妄想してしまう。地下鉄なら席を立てるが、ホールでは休憩まで金縛り状態。マスクの上から口を覆えるハンカチを用意しようか。最初からマスクを二重にしていくか。

新幹線は座席が選択できて、本当にありがたい。予約者10人未満の車両を選ぶことにしている。

911から20年

アメリカ東部時間で、8時46分でした。

20年前のあの悲劇を、私はモスクワのイミグレで知りました。ロシア語に紛れて、男性がペンタゴンとWTCが飛行機によって突撃されたとの英語が耳に届き、悪い冗談を言う人がいるものだとホテルに向かったのです。レセプションで、あの映像を見て目を疑い、コレが現実なのかと混乱したのを覚えています。私は翌日、黒海沿岸のアナパへ。自分が主演したウズベキスタン映画が出品しているキノショック映画祭に出るためでした。片田舎の宿のテレビは、あの映像を繰り返し流すだけ。ネットもつなげず、私はアメリカによる情報の外にいました。

帰りの飛行機の中で、日本の新聞を広げ、ムスリムを悪者に仕立てるアメリカ寄りの報道に抵抗を覚えます。インドネシア研究をしていた私、イスラーム社会を少なからず理解していたからです。帰国すれば、TBSの早朝番組「いちばん!エクスプレス」でコメントせねばなりません。出番までの半日、私は食い入るように日本のテレビを見て、自分の発言が極端にずれない範囲で、イスラームそのものは悪い宗教ではない。一部の原理主義者とはちがうというニュアンスを加えました。

が、視聴者からは、私がアメリカに厳しすぎるという批判の声も送られてきました。日本はアメリカの論調をそのまま伝えていたから、イスラーム擁護は許せないわけです。あのときにアメリカにいてレポートする立場ならば、私もイスラーム批判に走ったかもしれません。でも、埒外だったから、バランスをとろうとしたのです。いまだったら、ネットで炎上していたかもしれません。

その後、アメリカのアフガン侵攻――。人々に自由だの民主化だのを中途半端に植え付けて、20年経ったら撤退するなどということを、私たちはどうやって受け止めたらいいのでしょう。もちろん、米兵の命をこれ以上、犠牲にできないアメリカの事情もわかります。これについては、オバマ元大統領の責任も大きいと感じていますが・・・。

今年の911は、タリバンの復権と併せて、いつもにもまして悶々とした息苦しい日となりました。

ギャラリートーク

2021年9月2日から6日にかけて石川県立美術館・広坂別館において開催した『石川県美を設計した男』~建築家・富家宏泰 没後15年記念回顧展、そして9月5日に奈良祐希氏を迎えてのトークイベント。石川県の蔓延防止延長期間にも関わらず、ご来場くださった皆様、有難うございました。

対談の仕切りをとも言っていただいたのですが、主催の富家大器さんと奈良祐希さんお二人に存分に語って頂く方が良いと判断。私は総合司会に徹しました。

会場には、奈良さんのご先祖、大樋長左衛門10代、11代もかけつけてくださり、終了後ロビーで記念撮影。ありがとうございます。

 

 

グッチ バンブーハウス 2

紫織庵で開かれていたグッチ100周年記念行事は22日で終了。本来15日までだったものが延長されたので、2回めのビジット。前回人が多くて見逃したインテリアを中心に見て回りました。今回の着物は変わり絽の青。アンティークで、肩のところにベトッとシミがついていたので、それを右前とトレードして仕立直し。白の棕櫚。影は銀で表現。赤とんぼが飛んでいるので、グッチのバッグは赤を持ってみました。