昼間から、牡蠣

先日、東京を訪れたときのこと。スマホPCともに問題が起き、ビックカメラを目指して新橋から有楽町へと歩いた。いつもと違う道を選んだ。久しぶりの東京は面白い。

あと5分で正午という時刻。牡蠣が9個で999円という文字が目に入る。北海道の魚専門の炉端焼きの店らしい。10月末までのキャンペーンのようだった。

まさかランチでは無理だろうと思いきや、昼でもいけるという。ご飯ものは注文せず、蒸し牡蠣9個に挑戦。ビールという気分でもないので、アイヌソーダを注文した。

夜は賑わうのであろうこの店に私一人。ガランとして場違い感がいっぱい。所在なさをスマホに目を落として誤魔化していると、やがて工事のユニフォームを着た男性が、一人二人と入ってきた。焼き魚定食とか海鮮丼みたいなものを頼みながら、牡蠣を追加した男子2人。よかった。私1人ではなかった。そして、OLが4人。私という存在の違和感が薄まっていく。

蒸し器がテーブルにやってきた。なるほど、小ぶりだ。これなら9個イケる。殻も薄い。アイヌソーダとともに軽く平らげた。

私の蒸し牡蠣「初」体験は、伊勢だった。おかげ横丁の路地で、おじさんが提供してくれるのだ。ただし、秋から4月まで。近くには焼きが多いが、なぜか彼の牡蠣は蒸す。それも的場湾の大きな牡蠣を3つ蒸す。それが美味で美味で、内宮に参拝したあとで、必ず食べて帰る。もっともおかげ横丁は17時には店終い。真っ暗になるので、先に頂くこともある。そして17時の閉門まで内宮の摂社末社をじっくり参拝するのである。

さて、新橋の牡蠣ーー。殻が薄い。添えられたハサミで軽くカットできるほどだ。これなら砕いて肥料にできるのではないか。京都丹後の農産物は牡蠣殻を肥料にして育っている。それにならって自分の家の鉢に入れようと、以前大きな牡蠣殻をひとつ持ち帰ったが、立派な牡蠣の殻は厚くて固くて、砕くことが難しいのだ。それに比して、これはハサミで切れるほど。持ち帰るしかあるまい。店員さんに問い合わせると、ビニールをもってきてくれた。薄い殻だけ選んで、店を出た。

信号待ちで「牡蠣蕎麦」という文字が目に入る。そそられるけれど、さすがにいまはいいかな。と思い近づけば、そこから入る路地に、あるわあるわ、麺のお店がたっくさん。外で並んでいる店もある。

非常事態宣言が解かれて、飲食店が前に向かって歩み始めた。その気配を、牡蠣に教えられた。

オレンジと橙の間

朝日が昇る前、最もエネルギーが得られる。窓を全開にして外気を取り入れつつ、掃除をするといいよ。そうある人に教えられたが、掃除好きではない私は、窓を開けるのが精一杯である。

ある朝、暗い中、散歩に出てみた。エネルギーを浴びるなら、その時間帯に歩くのがベストに思えたからだ。夜の続きと思えるのに、なんとなく新しいことが始まりそうな予感がする。ちょっと嬉しい気配が漂うのだ。そして、自分が地を踏みしめる京都の町がヨーロッパに思えた。なんだろう。街灯がオレンジ色だからだろうか。いや、街灯は普通に蛍光灯のはずだ。

わかった。ホテルのせいだ。この数年、できたばかりのホテルのせいだ。京都には大きなホテルが少ないからと行政も前のめりになり、コロナ前から次々と新しいホテルが建ち始めていた。それらがオレンジの光を放っているのだ。加えて、ホテルのロゴ、これが異国にいる感じを醸し出す。パリやプラハ、と言いたいところだが、石造りでもない鉄筋コンクリートの建物は、やはりアメリカと似ているというべきだろう。

足元は石畳でこそないが、アルファベットがつらなるロゴと、オレンジ色の灯りが、欧州を彷彿とさせるのだ。まるでパリやプラハ、と言いたいところだが、石造りでもない鉄筋コンクリートの建物は、やはりアメリカと似ているというべきだろう。そもそもこの季節になると、京都はワシントンDCを彷彿とさせるときがある。夜明けのこの気配は、紛れもなくアメリカだった。戦後日本がお手本としてきたアメリカだった。それも東海岸の。

が、ホテルなど一軒もないエリアに入り空を見上げると、そこには白い蛍光灯に照らされた、太い電線の束。これが視界に入ってきて、ここは京都の真ん中だったと思い知らされる。

東の空が次第にしらんできた。ああ、やはり家に戻ろう。東山から昇る朝日をみたい。7階のベランダから、ご来光を拝もう。東山が橙色に変わる様、これこそが古代より変わらぬ京都の橙である。

その朝私が見たのは、観光客を呼び込むためのオレンジの光。京都の町は、これを望んでいるのだろうか。

鞍馬の火祭

例年なら、今宵は鞍馬の火祭のはずでした。京都の3大奇祭といわれる祭りです。

それについては、アキオとアキコの京都女磨きに書いています。涼しくなってきたので、ぜひご高覧いただきたい。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/88076

内田光子さんのこと

このところつらつら考えていたことがあります。社内結婚がゆえに退職を余儀なくされて専業主婦をしていた時代(つまりキャスターデビュー前)、私は東京芸大の楽理を受験して、音楽家の評伝作家を目指してもよかったのではないか、と。

そんな折、ショパンコンクール2位に日本男子が入選したとの朗報が。ますます音楽の道を閉ざした自分が悔やまれていたところ、実は昨日、内田光子さんが、京都コンサートホールでリサイタルを開いたと知人のFBで知ったのです。私は東京にいたので、直前に知っても無理ではありましたが。

内田光子さんは、話題のショパンコンクール2位、ベートヴェンコンクール1位、の凄いピアニストです。私は中学時代、音大付属受験を目指してピアノに励んでいました(受験直前に向いていないと自主断念、普通高を受験)。月に一度見てもらっていた大先生が、厳しくて有名な桐朋学園の松岡貞子教授。幼き日の内田光子さんを教えた方でした。なにかについて「光子ちゃんはね」と口になさる。社宅ぐらしでアップライトのピアノしかもたない私に、なんと酷なことか。ほぼ毎回、私の演奏を聴きながら首を横に振ってNGオーラ全開、褒められたことは一度だけ。でも、先生のおかげで、若いころから内田光子さんの東京での演奏会へは必ず伺っていました。孫弟子たちにも、指の見える席が確保されていたので。ビデオのない時代、技術重視の当時の日本の音楽界では指の運び、とても大切だったのです。

チェコ革命のシンボル「マルタクビショバ」

NHKのアーカイブズを紹介するプレミアムカフェを楽しみにしている。少し前に、マルタ・クビショバの番組を見た。マルタは、チェコの国民的歌手、革命のシンボルだった。1968年の民主化運動「プラハの春」で弾圧されて以降ずっと潜伏していたのだが、89年のベルベッド革命で再び浮上した女性である。後に大統領となる劇作家のバーツラフ・ハベルとも親しく、共産党政権を倒すまでの革命運動の間、彼女の「マルタの祈り」がプラハの人びとを励まし続けた。

マルタについて、私は「朝日ジャーナル」と、拙著『レーニン像を倒した女たち』に記している。ベルリンの壁崩壊直後の1990年に単身、東欧に飛び込んで取材したきり追っていなかったのだが、この番組を見て愕然とした。彼女の人生が克明に描かれていたからだ。時を経て、語っていいタイミングに、私は会いに行くべきだったのだ。

1990年当時、彼女が外国人記者に多くを語ったとは思えない。1968年に「プラハの春」をいきなりソ連軍の戦車に押しつぶされた経験の持ち主だからだ。ミャンマーやアフガニスタンのように、独裁政権はいつ復活するかわからない。その恐怖はまだ払拭されていなかっただろう。しかしながら、10年を経て、テレビカメラの前で彼女は多くを語ったのだった。具体的に。1968年、1989年、何があったのか。自分の半生を語ったのだった。

本の売れない時代、私がチェコの革命の話など出版企画は通らないのだが、そうだった、番組に提案してみるという手があったのだった。「マルタの祈り」とともに彼女が歌った「ヘイ・ジュード」の替え歌(プロテストソング)を軸に据えた番組は、ある世代以上には説得力があるものと思えた。

またまた、自分の半端さに、落ち込んだ私であった。

形見の赤黒で、KYOTOGRAPHIE 町家暮らし勉強会、五条坂登り窯、こいこい茶会へ

京都は昨日から急に寒くなりました。17日で閉会というイベントが多く、私自身も訪れるところ盛りだくさん。#KYOTOGRAPHIE  #誉田屋会場 の #シャネル#北観音山 で #町家暮らし の勉強会、五条坂の #登り窯、寺町茶舗 #蓬莱堂 での、こいこい茶会。その後、神明舎。さて、何を着る?

寒さから、濃い色を纏いたくなり、#kyotographie のロゴは赤黒、こいこい茶会は、はんなりでもないだろうから、こんな装いに。

襦袢も含め、すべて #母の形見? あるいは、孫の私用に祖母が用意していた? 母の桐たんすか押し入れのガンガンに入っていたものばかり。昭和の名古屋好みと思われます。コーデは、アキオのオリジナル。一つ間違えれば子どもっぽい花柄も、赤黒幾何学を合わせてみたら、粋な印象に。帯締めも縞々。

あ、草履は、#祇園ない藤 の赤を履いて行きました。バッグは、#ANANDA です。

文楽劇場へ

大先生がご出演されるというので、日舞の会を見に、大阪の文楽劇場まで。ご一緒してくれたのは舞の姉弟子S子さん。お酒解禁になったから、ワインとイタリアン。飛び込みだったけれど、美味美味。若者とのランデブーは楽しい。アプリ使っているかも。着物の向きを反対にしてくれたのだが、私にはようわからん。まだまだ暑いので、着物は単衣菊の小紋。

最高の「きんとん」は、できたて太宰府藤丸製

これまでの人生で一番の「きんとん」。水屋で作られた、できたてだから本当に美味。それもそのはず、亭主が太宰府の藤丸さんだから。向かって左から2人目がご主人です。コンセプトは、道真公が京都北野天満宮へ里帰り。

里帰りというかぎりは、太宰府に流された菅原道真公が京都へ、というところにつながるわけです。背景の軸は、太宰府天満宮の前宮司が道真の歌を書いたものらしい。

私が太宰府天満宮を参拝下のは令和元年5月1日。前夜は唐津でのお茶会に出て平成に別れを告げ、翌朝は跡見茶会のあと、太宰府天満宮に参拝したのでした。