カテゴリー: Blog
信貴山の虎
誕生日が寅の日と知った私は、虎と縁のある社寺を巡ろうと、奈良の信貴山に出向いた。実はここは、寅年に訪れるべきワンダーランドでもある。若冲の虎の帯、ここでも大活躍(写真はのちほど)。
信貴山は、毘沙門天王が日本で最初に出現されたという、毘沙門天王信仰の総本山。聖徳太子によって開山されたという。毘沙門天王像は左に禅膩師童子像、右に吉祥天像とともに内陣の正面に安置されている。
こちらの寅信仰は、聖徳太子がこの山で毘沙門天王を感得されたのが寅の年、寅の日、寅の刻であったといわれている。今年は聖徳太子の遠忌1400年。日ごろ六角堂で聖徳太子に参拝している私は、そのご縁で、ここに注目。参拝する流れとなったのかもしれない。
入口に、とてつもない張り子の虎がいるとはネットで見て知っていたが、虎のポストや虎の授与品があれやこれやで楽しすぎる。早朝の玉蔵院は掃除中。左奥の出世毘沙門天(刀八毘沙門天)に手を合わせた。刀が八本もある毘沙門天さま、どうやら闘いに強いらしい。その後、本堂に向かったものの、京都での用事も控えており、落ち着いての参拝は、寅年になってから。
本当なら寅の日参拝が望ましいが、元旦と重なるため、すさまじい数の参拝客が予想される。そもそも車がないと辿り着かないので、寅の日参拝は2月以降にしようと思う。
母のお召
63歳で早逝した母の形見整理が、私にとっての最初に試練だったかもしれません。
海外を飛び回っていた私が想定していたのは、母が私の遺品を整理する姿。勝手な娘が渡航を繰り返し、怪しい事件に巻き込まれる可能性。整理能力のない娘のことをブツブツ文句を言いながら、私の持ち物を始末する姿。だが、実際に起こったことは、母がこの世を去り、これまた整理能力のない母の持ち物+実家のすべてを私が整理する羽目になったのでした。
弟の結婚まで母娘の関係は決してよくなく、母の私物や花瓶や茶碗など、母の思い入れをなにひとつ聞かせてもらっていなかったのでした。私の関心事だった着物をどう着こなせばいいのやら、冷蔵庫の食材を前に調理法がわからなくて呆然とするに等しい戸惑いの中にいました。
なかでも悩んだのは、この赤いお召。この幾何学は、いかにも難しい。洗い張りを終えて丸められた反物状態でしたし、母が纏っていた写真も残っていなかったので、おそらく仕立てることはないであろうと思っていました。京都で知り合った呉服関係者に相談し、面白い柄行だから着てみれば?と勧められて仕立てたのでした。
ところが、帯が難しい。最初は、アンティークショップでみつけた「たらりの帯」を仕立て替えたものを締めていましたが、この日は誉田屋さんの「日々是好日」を締めてみました。鶏、向日葵、梟が描かれているのです。写真は吉田家。灯りの影響で、実際の色より朱をおびています。
正月事始め
12月13日は正月事始め。年末の掃除、新年の準備を始める区切りの日である。
お世話になっている人々へご挨拶に行く日でもある。今日庵や不審庵、お茶の家元のところへは業者が挨拶に訪れ、花街なら踊りの師匠や料亭に挨拶まわりをする。
それゆえ花街の芸舞妓が色とりどりの着物を着て歩く姿は実に愛らしい。それをカメラに収めたいとカメラおばさんカメラおじさん、そして外国人観光客がコロナ前には花街に押し寄せていた。上七軒、祇園界隈、宮川町には黒山の人だかりができて、地元民にも芸舞妓にも迷惑な存在ではあった。
中止された昨年はさすがに訪れる人もいなかった祇園の花見小路に足を運んでみた。一力の前はさすがに疎らで、静かなもの。やがて家元、四条北のお茶屋さん周りを終えた芸舞妓、それを追っていたカメラおじさんが数名南下してきた。それでものどか。途中で警察が偵察に来たが、あまりの静けさに引き返したほどである。
私自身、色々なご縁で芸舞妓さんとお座敷でご一緒したことが何度かあるのだが、お座敷とは違う、普通のメークで淡い色の着物姿の芸妓さんや、髪はゆいながら小紋に蝶文のかいらしい帯を締める舞妓ちゃんたちの装いを観たくて、時々この界隈を訪れたくなる。
今年の気づきは、ヒエラルキーだった。一番若い舞妓ちゃんが先まわりして、暖簾を上げるのである。その後に続くお姉さんたちのために。こういう気遣いとか行動は修行の賜物。花街と宝塚くらいではないだろうか。もちろん、裏千家学園を出た女性たちも、こうした気遣いは徹底している。
今年の師走は暖かい。事始めは少し風が冷たかったが、それでも例年に比べて暖かい。ショールを羽織る芸妓も例年に比べて少なかった。加えて、クリスマスの帯が目についた。二人の芸妓さんの背に、それを確認したのだった。
四条通では、商店街の沿道に幕を貼る作業が進んでいた。祇園の風景は、事始めを機にガラっと変わる。ああ、今年もあと2週間余。何もなし得ないまま、歳が改まろうとしている。
侘助の花
侘助という花がある。
椿に似た、しかし、花びらは一重で、開き方も小さくラッパのような形をしている。蕾をたくさんつけるので、晩秋から春まで何度も花を咲かせる。
私が初めて侘助の白い花に出会ったのは、四半世紀も前、北観音山の吉田家のこの庭であった。夜に眺めたと思う。闇にふっと浮かんでくる可憐な花に、佇まいの素晴らしいこの家に誘ってもらった感動以上に、強烈な何かを私は植え付けられた気がしていた。侘助という響きのせいかもしれない。闇に浮きあがった白の群れは天から舞う雪にも見え、一瞬でも冬の京都に身をおいた私の心に、何か罪悪感めいたものを落とした気がしている。ひぐらし喧騒の中にいる東京では人間として大切なものをう失っているのだという、貘とした罪悪感。その感覚が、私を京都暮らしへと誘ったのかもしれない。
京都の新町通六角下る。毎年夏になると北観音山が建つこの町は、かつて両替商の三井家、松坂屋の伊藤家など、豪商の家々が立ち並んでいた。三井の土地には現在、逓信病院が建つが、私が東京から祇園祭に通うようになってからも、まだ松坂屋の伊藤家所有の建物は蔵などとともに残っていて、新町通りに長く幕が貼られているのがいかにも美しく、毎年、写真を撮っていたものだ。南北に伸びる新町通でも、この界隈だけ道路の幅が広いのは、そうした豪商が馬車を停めるためだった。
山鉾町の家々には、いわゆる京町家が数多く並んでいる。入り口の幅はさして広くなくても、奥が深く、途中に坪庭があるのが特徴だ。そして、さらに奥に構える蔵との間に、吉田家にはもうひとつ庭がある。そこに、この侘助が花を咲かせるのである。
京都で暮らすようになってしばらくして、私は年に数回、この家を訪れている。吉田家は特別で、誰でも中に入れるわけではない。縁のある人が招かれるだけである。祇園祭の折には窓枠が取り払われ、先祖代々受け継がれてきた屏風などを飾って見せるのが習わしだが、それも新町通から眺めるだけで、家の中に入って腰を落ち着けるなどということは、誰か親しい人に連ならなければ叶わないことなのである。
そんな特別な京町家に私がしばしば訪れた理由は、当主である吉田孝次郎氏が京都の商家の暮らしについて語る吉田塾を始めたからだった。私はその塾生として足を運んだ。当初は季節で移ろう町家の室礼などにだったが、次第に、先生のコレクション、小袖、更紗、朝鮮毛綴れなどをご披露いただき、その後の懇親会が楽しみとなっていった。コロナ前のことである。
その吉田塾が日曜日、最終回となった。コロナ禍では途切れ途切れとなっていた講座に一区切りつけて、仕切り直すということである。その記念すべき最終回に、侘助が一輪、咲いていた。私を京都にいざなった侘助の白い花。
その日も、庭の大きな侘助の木には、数え切れないほどの蕾が膨らんでいた。たった一輪の白い花が、私たちに一旦の別れを告げていたのだった。
この日の帯は、侘助文と言いたいところだが、花が開きすぎているかもしれない。椿と呼ぶには花は一重なので、私が勝手にそう解釈している。着物は葉っぱの小紋。葉が落ちる中、侘助が凛と花開いている様を表現したかった。
帯が結べない
この日、私はとても疲れていた。からだ全体がだるかった。首も肩も凝っていた。
予定では、14時から始まる錦天満宮の例大祭に参列。夜は完全会館でプチ能を観劇。だから、和服を着ようと決めていた。でも、何を着たらいいのか、考えがまとまらなかった。
デスクでは資料を読み込んだりしていて、軽いメークと着替えを始めたのが13時過ぎ。いつもなら、シャキっと着替えて出かけられるものを、何を着たらいいのかまだ頭の中で像が結べずにいた。
天満宮だから梅を纏いたい。でも写実的な梅は11月にはそぐわない。ならば梅鉢紋の帯を締めればいいではないか。でも、袋帯を結ぶのは難儀だ。ここ数年、あの帯を締めていなかった。すっと結べるイメージを自分の中で作り上げられずにいた。とりあえず紫の着物を選んで梅鉢紋の帯を締め始めたのだが、久しぶりの上に滑りが悪い袋帯を整えるのに、やたら時間がかかった。なんだかダルくて辛い。億劫だ。ようやく結べたと思ったら、なんだか歪んでいる。直す気力もない。
ああ、止めた! 洋服にしよう。急いで服に着替え、ダウンを羽織って、カメラなどをリュックに詰めて現場に走った。どうにか神事には間に合った。幸い、参列者に和服姿の人はいない。
そこへ蓬莱堂のご主人が入ってきた。寺町通にある老舗茶舗のご主人である。和服だ。マズイ! やっぱり和服にすべきだった。梅文に拘る必要はなかったのだ。二部式に仕立て直している、たとえば稲穂文の帯を結べば、それで済んだのに。なんだか頭がまわらない。
例大祭は粛々と進んでいった。新撰を神前に供している間に、遠州流の家元がお茶を点て、献じられた。その後、舞楽も献じられた。平安雅楽会の練習が錦天満宮で行われている。そのご縁だ。例大祭は計2時間弱。
錦天満宮は錦市場の東端にある。組み上げられている地下水が美味しいことも評判を呼び、毎朝、料理屋などが水を汲みにくるという。私も時々お水をいただく関係で、前の晩、お献酒を届けた。祇園祭では神輿を先導する久世稚児が、ここで着替えて参拝してから馬にまたがる。重要な神社だ。だから堂々と和服で参列する心づもりだったのに。
ごめんなさいね。道真公、お家元、宮司さん、みなさま。
夜になると扁桃腺が腫れて熱が出そうな気配。急に冷え込んで、寝ている間に首が冷えたということらしい。ダルいのも億劫だったのも、からだがSOSを出していたのだ。
それでも、神事には参列したいし、正装もしたい。だから、帯は2本立てで考えるべきなのだ。袋帯がうまく結べなければ、二部式でいく。ダブル・スタンバイがストレスを減らしてくれる。
直前の瞬発力で乗り切るには歳を重ねすぎたかな。やはり数日前にイメージは作り上げておくもの。高齢者の領域に入れば、そのくらいの知恵はつけておきたいものである。
さて、このあとの観世会館での能鑑賞、はてどうしたものか。
虎のマスクで神農祭へ
東京は蘇ったか
10年ほど前の東京は、なんだかつまらない気がしていた。飽きたと言っても過言ではない。人間が好き勝手なことをして、自然に対して謙虚ではないことに、待ったをかけたのが311のはず。なのに、人びとは、そんなことも忘れて、経済中心の日常を繰り返し始めていたからだ。でも、景気がいいわけではなく、空気は淀んでいた。
9年後に新型コロナウィルスによるパンデミックが発生し、さすがに人類は反省しただろうと思いきや、また元の生活に戻ろうとする力を感じる。懲りないなあ、みんな。
でも、京都を軸に、ときどき東京に戻ってくると、東京の底力を感じるのも事実。若者はオサレで元気だし、街は確実に息を吹き返している。スクラップアンドビルドで次々ビルを建て替えた結果、駄目になっているかといえば、さにあらず。むしろ若返ったと考えるべきだろう。
伊勢神宮が20年に1度、遷宮を繰り返す。常若の考えから来ているが、もしかしたら、オリンピックに向けての建て替え作業は、東京をリセットし、若返らせたのかもしれない。
311の後、景気も悪く、下をうつむいていた30代40代。東京五輪開催を目標に、堂々と前を向いて歩くようになった。コロナによるステイホームで一時、混乱はしたかもしれないが、どうしてどうして、若者たちは楽しそうに街を歩いている。
もちろん、この眩しい男子女子の影で、鬱鬱とした日々を送る人びともいるのだろうが、しかし、元気印が前を歩いてくれる限り、彼らも浮上できる可能性があるのだから。まずは元気な若者を生み出す土壌を作りあげることが大事なのですよ。
東京五輪の後、どんなに落ち込むかと心配していたが、迷いながらの五輪のおかげで、なんとなく元気だよね、東京。この調子で、乗り切れるといいね。
コロナ禍がなんであったかといえば、人間が増え過ぎたことへの警告であったと言わねばならない。蜜が駄目=人が集うことを禁じられたのだから、私たちはそこを感じ取るべきだ。
どう考えても人口が多い。増えれば開発を考える。地球を荒らす。怒るよね、大家さん。住人がどんどん増えて、マナー悪くて、感謝もなくて。いい加減にしろっていうよね。
少子化を憂いても仕方ないよ。少子化前提に、社会のシステムを考えよう。人間が増えない前提で、皆が幸せになるシステムを考えることこそ、いま求められていることなのに。
ただね、これに乗じて社会システムを悪い方に変えようとするグループもいるわけです。新しい生活様式という名前のもとに、「ワ」を撃つことを癖にさせたり、それを条件にして人の動きを統制したり、これから色々なことがでてくると思うのです。
無理に出産をさせることではなく、すでに生を受けている子どもたちを幸せにすることを考えるのが懸命です。年収960万円の親のもとに生まれた子どもに10万円配るより、年収500万円以下の家の子供に20万円配るほうが、ずっと意味があると思うけれどね。
今日は渋谷でワシントンハイツについてお話します。
空きができて若干名当日でも入れるようです。16時以降、お店にお電話くださいね。
第9回 :
渋谷のアメリカ村〜ワシントンハイツがもたらしたもの〜
■ MC: 田中雅之 (『渋谷の秘密』編集者/PARCO出版)
東京都渋谷区渋谷3-22-11 4F-A http://li-po.jp 03-6661-2200
https://shibureki-09.peatix.com