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iPhone13PROMAXを買いに
ようやくスマホを新しくした。
iphone 13 pro max.
iphone 7 plus を5年間使い続け、途中で一度新しくしたものの、電池はすぐ切れる、テザリンはできなくなる、カメラ機能の調子悪いときがある、などのトラブルが続き、さらに7plus を使い続けるべきかどうか悩んだ挙げ句出した結論だった。
老眼でなければ、この後に発売されるiPhoneSEを買いたいところ。コスパで選ぶならこれだと思った。が、画面は大きくなければならない。iPhone7+に執着したのは、そのためだ。となると、iPhone13PROでさえ、幅が足りない。ゆえに、重くとも高くとも画面の大きなPROMAXにするしかない。しかも、ゴールドはPROしかないのである。
型落ちしたiPhone12でいいじゃないか、という声もあるのだが、しかし、ドコモから乗り換えて手続きするのが面倒だ。他にも、フレッツ光のトラブル、もうひとつのガラ電話の不具合などなど、全部を一度に解決したかった私は、ドコモ詣でを続けて、ここに至ったのだった。
17時から始まった手続き、終わったのが22時過ぎ。おなかはすくし、疲れるし。
これでテザリングができると思ったら、いまはそれだけで幸せ。カメラの良し悪しは翌日に。
3月10日は東京大空襲で犠牲になった方々に思いを馳せる日
そろそろウクライナについて
ロシアのウクライナ侵攻に日本の若者がここまで怒るとは、映像のインパクトと、SNS報道のなせる技というべきだろう。
武力を憎む気持ちは大切だ。戦争からは何も生み出さない。馬鹿げている。それを訴えたくて、私は『ワシントンハイツ』を上梓した。大国の思惑を知ってほしいと思ったからだ。
犠牲になるのは、常に一般の市民である。命を落とした方々、避難を余儀なくされている方々に、心よりお見舞い申し上げる。
しかしながら、報道を鵜呑みにするのが危険なのも事実だ。
たとえば、特派員が事実を伝えたくても、日本の空気を見ながら東京のデスクに歪められることもある。彼らがそれを嘆くのを何度も聞いた。意図的にフェイクニュースが流されるのは最近に限ったことではない。技術が発達したいま、加工は難しいことではない。何が本当で何が嘘か、メディアが真実を見せているとは限りない。流れてくる写真や映像が現在進行系なのか、捏造されていないか、疑ってみる価値はある。
時には上空からウクライナ情勢を見てみよう。プーチンさえコマのひとつにすぎず、操っている輩がいるかもしれない。時には、中世の歴史に目を転じてみよう。この争いの深層にあるものは中世から続く対立の構図かもしれない。そのよじれ方は、日本人のコメンテータがテレビで語れるほど簡単なもどではないはずだ。
私自身は、1990年、ベルリンの壁崩壊直後の東欧ソ連をホームステイして歩き、人々の声を集めてきた。ひょんなことから、ウズベキスタン映画にも出た。ウクライナに特に執着はないが、普通の日本人より、彼らの歴史を見聞きしてきたつもりだ。だから現地を知らない日本の視聴者より少しだけ土地勘はある。だから、嘘も見破る力が備わっているほうだ。
強調したいのは、昨日までの日常が未来永劫に続くわけではないという時代がやってきたことだ。だから、あらゆる想定しておくことをオススメする。「ありえないという思考停止」が日本人を駄目にする、と私は常々訴えてきた。いま起きていることを冷静に受け止め、自分が当事者だったらどうするか、常にシミュレーションしてみることだ。
万が一、我が身に降りかかってきたときに慌てないために。
京紅型小紋に梅の帯で、島田耕園はんなりおひなさま@祇園へ
バレンタインデーは、御所人形作家の島田耕園さんの「はんなりお雛さま」を観に、祇園へ。万治カフェで10日から開かれていたのに、伺えたのは最終日15時ぎりぎり。遅くなって、ごめんなさい。
島田家に伝わる大正時代の雛人形は、もちろん丸平製。京都の名家の雛人形は丸平製と相場が決まっている。丸平かどうかで、その家のランクが図られるといってもいいかもしれない。とりわけ大正時代のものが評価が高い。その時代の職人が一番美しい人形を作ったのだといわれている。
くわえて、耕園さんが娘さんのために作ったという雛人形も拝見させていただいた。雛人形が父親の作だなんて、羨ましい限りである。背景の屏風や雪洞は、丸平さんに依頼したという。
もうひとつ、目を引いたのが、雲上流の飾り。丸平の雛飾りの左右を飾る桜橘は、間違いなく雲上流である。それを壁に設えるパタンもあるのだが、他と一線を隠して、うっとりする。
せっかくだから、ひいなの帯を締めればいいのに、出掛けにみつからず諦めた。午前中は京都美術工芸大学にて天水バケツを取り付けたため、探す余裕ないまま、白梅の帯で14時に家を出た。着物は私が20代のときに母が用意していてくれたもの。見るなり、「京紅型やな」と島田耕園さん。顔映りがいまひとつで40代までは敬遠していたが、中に鳳凰も描かれているので、最近は春になると締めております。
なぜ服にこだわるの?
その女性とじっくり話したのは初めてだった。彼女の個展に足を運び、会場を出たあと、軽食を食べようと誘われたのだった。
「ねえ、なんでそんなに服にこだわるの?」
意外だった。存在は知っていても、会うことは年に一度の集まりくらい。それも彼女が加わったのは数年前からだ。そこの面々や共通の知人の祝宴などと限られた場面である。私が日ごろ何を着ているかなんて知らないはずだ。ましてや、テレビを見ない彼女は私が画面に出ているのを見たことがないはずなのである。
たしかに、私は着道楽だし、衣食住の衣に最もお金をかけている。どこで何を着るかTPOに細心の注意をはらっているし、何を着るかは私の意識の中の大半を占めている。というより、納得のいかない格好で外に出ると落ち着かないのだ。自分の中で筋が通っていない感じのまま場に臨むと、失敗する。
キャスターとして進行したりニュースを読んだりするときは、まさに服装が出来を左右した。中身より格好という人もいるかもしれないが、納得しない服装のままカメラの前に出ると、パキっと伝えられないのである。内容にあわせるか歳時記に沿った物を着るか、自分に合ったものを着るかどうか。自分の納得がいけば、半分成功。それは自信とか確信といっていいかもしれない。
月釜にセーターで来る人がいるが、あれはいただけない。茶室には和服で入る。間違っても、セーターでは足を踏み入れない。それは茶室への敬意であり、ご亭主へのリスペクトがあるからだ。どうしても時間がなく、洋服で寄せてもらうとすれば、長い丈のワンピースか、長いスカートにジャケットを装うであろう。
熱を奪わないで
今朝、8時からの朝食アポのため歩き始めたときには、寒くて寒くて、思わずタクシーに乗ってしまった。ワンメーターの距離。でも、歩けない。
頭の上から熱が逃げていくのだ。今日に限って、大昔に買ったカシミアのロングコートを纏っていた。中にユニクロのウルトラライトダウンを着ているから寒さ対策バッチリのつもりだった。ところが、フードがないのだ。フード付のダウンなら、雪が舞ってきても大丈夫。なのに、今日の私にはフードがない。私の体温が頭から奪われる。耳が痛い。今年初めての、イヤーマッフルを欲する寒さだ。
まるで冷凍庫の中みたい。そう、NYとか年末のミラノとかを思い出す。ロシアの人々があの帽子をかぶる意味、80年代半ば、NYに行ったときに私は初めて知ったのだった。
最初の冬の海外経験はパリ。新婚旅行でアフリカのセネガルへ行く際に経由したためだ。サントリービールのCFの撮影チームから、ケニアはいいよ!と聞かされていた私はケニア旅行を所望したのだが、相手に強行に反対され、一旦はセイシェルに落ち着き、しかし、クーデターがあったために行き先を変えざるを得なくなった。そこで仕事で知り合った地中海クラブの人のちからを借りて、エアーフランスでパリまで出向き、欧州の人々とともに地中海クラブのツアーに入ったのだった。
行きはトランジットのみ、帰りにパリに降り立った。本当の年末だったが、クリスマスイルミネーションの名残が美しかった。ダウンなどない季節、偶然長いコートは持っていたが、足元からジワジワ冷えてくるのだった。底冷えという言葉が身にしみたのはその時だ。それでも、頭は無事だった。
厳寒のNYへは80年代半ば。国連勤務の友人宅に居候してNYを歩いていた。彼女のアパートのエレベータで出会った老婦人が私を見てクレージーだという。冬のNYをそんな格好で歩くのか。私のロングコートを貸すから部屋に取りに来い、というのだ。オフタートルだったと思うが、ショッピングピンクのセーターの上にオーストラリアで買った黒い革ジャンを来ていた。下はスパッツような黒いパンツ。無防備といえば無防備だが、若さゆえ、怖いもの知らずだった。
ところが、次第に、老婦人の声掛けの意味がわかってくる。お尻が寒いのだ。腰が冷えるという感覚を生まれて初めて知った。それに、頭上が寒いのである。自らの力で温めている貴重な体温が、頭の上から逃げていく。どんどん奪われる感じなのである。
なるほど、マンハッタンを歩けば、誰もがロングコートをまとい、帽子をかぶっているではないか。あ、ソ連の人々の毛皮の帽子は、ここから来ているのか。
そんなことを思い出しながら着いた先は昨年誕生した新しいホテル。時節柄、外来客の朝食が断られる昨今、門戸を開いてくれている嬉しい存在なのだ。サンドイッチを食べおえて、ふと窓の外を見ると、雪が舞ってきた。薄い白の断片がほわほわと舞い降りてくるのだった。
ホテルを出るころには、どうなっているだろう。あの美しい雪華を頭に受けてみたいような、でも私の体温で溶かしてしまうとすれば勿体無いような、家を出たときの冷気を忘れて、自分の髪の上に降り注ぐ雪を想像する私がいた。熱を奪われることなど、すっかり忘れて。
立春大吉 アキオを探せ

節分備忘録
