京紅型小紋に梅の帯で、島田耕園はんなりおひなさま@祇園へ

バレンタインデーは、御所人形作家の島田耕園さんの「はんなりお雛さま」を観に、祇園へ。万治カフェで10日から開かれていたのに、伺えたのは最終日15時ぎりぎり。遅くなって、ごめんなさい。

島田家に伝わる大正時代の雛人形は、もちろん丸平製。京都の名家の雛人形は丸平製と相場が決まっている。丸平かどうかで、その家のランクが図られるといってもいいかもしれない。とりわけ大正時代のものが評価が高い。その時代の職人が一番美しい人形を作ったのだといわれている。

くわえて、耕園さんが娘さんのために作ったという雛人形も拝見させていただいた。雛人形が父親の作だなんて、羨ましい限りである。背景の屏風や雪洞は、丸平さんに依頼したという。

もうひとつ、目を引いたのが、雲上流の飾り。丸平の雛飾りの左右を飾る桜橘は、間違いなく雲上流である。それを壁に設えるパタンもあるのだが、他と一線を隠して、うっとりする。

せっかくだから、ひいなの帯を締めればいいのに、出掛けにみつからず諦めた。午前中は京都美術工芸大学にて天水バケツを取り付けたため、探す余裕ないまま、白梅の帯で14時に家を出た。着物は私が20代のときに母が用意していてくれたもの。見るなり、「京紅型やな」と島田耕園さん。顔映りがいまひとつで40代までは敬遠していたが、中に鳳凰も描かれているので、最近は春になると締めております。

 

 

なぜ服にこだわるの?

その女性とじっくり話したのは初めてだった。彼女の個展に足を運び、会場を出たあと、軽食を食べようと誘われたのだった。

「ねえ、なんでそんなに服にこだわるの?」

意外だった。存在は知っていても、会うことは年に一度の集まりくらい。それも彼女が加わったのは数年前からだ。そこの面々や共通の知人の祝宴などと限られた場面である。私が日ごろ何を着ているかなんて知らないはずだ。ましてや、テレビを見ない彼女は私が画面に出ているのを見たことがないはずなのである。

たしかに、私は着道楽だし、衣食住の衣に最もお金をかけている。どこで何を着るかTPOに細心の注意をはらっているし、何を着るかは私の意識の中の大半を占めている。というより、納得のいかない格好で外に出ると落ち着かないのだ。自分の中で筋が通っていない感じのまま場に臨むと、失敗する。

キャスターとして進行したりニュースを読んだりするときは、まさに服装が出来を左右した。中身より格好という人もいるかもしれないが、納得しない服装のままカメラの前に出ると、パキっと伝えられないのである。内容にあわせるか歳時記に沿った物を着るか、自分に合ったものを着るかどうか。自分の納得がいけば、半分成功。それは自信とか確信といっていいかもしれない。

月釜にセーターで来る人がいるが、あれはいただけない。茶室には和服で入る。間違っても、セーターでは足を踏み入れない。それは茶室への敬意であり、ご亭主へのリスペクトがあるからだ。どうしても時間がなく、洋服で寄せてもらうとすれば、長い丈のワンピースか、長いスカートにジャケットを装うであろう。

 

 

 

 

 

熱を奪わないで

今朝、8時からの朝食アポのため歩き始めたときには、寒くて寒くて、思わずタクシーに乗ってしまった。ワンメーターの距離。でも、歩けない。

頭の上から熱が逃げていくのだ。今日に限って、大昔に買ったカシミアのロングコートを纏っていた。中にユニクロのウルトラライトダウンを着ているから寒さ対策バッチリのつもりだった。ところが、フードがないのだ。フード付のダウンなら、雪が舞ってきても大丈夫。なのに、今日の私にはフードがない。私の体温が頭から奪われる。耳が痛い。今年初めての、イヤーマッフルを欲する寒さだ。

まるで冷凍庫の中みたい。そう、NYとか年末のミラノとかを思い出す。ロシアの人々があの帽子をかぶる意味、80年代半ば、NYに行ったときに私は初めて知ったのだった。

最初の冬の海外経験はパリ。新婚旅行でアフリカのセネガルへ行く際に経由したためだ。サントリービールのCFの撮影チームから、ケニアはいいよ!と聞かされていた私はケニア旅行を所望したのだが、相手に強行に反対され、一旦はセイシェルに落ち着き、しかし、クーデターがあったために行き先を変えざるを得なくなった。そこで仕事で知り合った地中海クラブの人のちからを借りて、エアーフランスでパリまで出向き、欧州の人々とともに地中海クラブのツアーに入ったのだった。

行きはトランジットのみ、帰りにパリに降り立った。本当の年末だったが、クリスマスイルミネーションの名残が美しかった。ダウンなどない季節、偶然長いコートは持っていたが、足元からジワジワ冷えてくるのだった。底冷えという言葉が身にしみたのはその時だ。それでも、頭は無事だった。

厳寒のNYへは80年代半ば。国連勤務の友人宅に居候してNYを歩いていた。彼女のアパートのエレベータで出会った老婦人が私を見てクレージーだという。冬のNYをそんな格好で歩くのか。私のロングコートを貸すから部屋に取りに来い、というのだ。オフタートルだったと思うが、ショッピングピンクのセーターの上にオーストラリアで買った黒い革ジャンを来ていた。下はスパッツような黒いパンツ。無防備といえば無防備だが、若さゆえ、怖いもの知らずだった。

ところが、次第に、老婦人の声掛けの意味がわかってくる。お尻が寒いのだ。腰が冷えるという感覚を生まれて初めて知った。それに、頭上が寒いのである。自らの力で温めている貴重な体温が、頭の上から逃げていく。どんどん奪われる感じなのである。

なるほど、マンハッタンを歩けば、誰もがロングコートをまとい、帽子をかぶっているではないか。あ、ソ連の人々の毛皮の帽子は、ここから来ているのか。

そんなことを思い出しながら着いた先は昨年誕生した新しいホテル。時節柄、外来客の朝食が断られる昨今、門戸を開いてくれている嬉しい存在なのだ。サンドイッチを食べおえて、ふと窓の外を見ると、雪が舞ってきた。薄い白の断片がほわほわと舞い降りてくるのだった。

ホテルを出るころには、どうなっているだろう。あの美しい雪華を頭に受けてみたいような、でも私の体温で溶かしてしまうとすれば勿体無いような、家を出たときの冷気を忘れて、自分の髪の上に降り注ぐ雪を想像する私がいた。熱を奪われることなど、すっかり忘れて。

 

 

立春大吉 アキオを探せ

立春です。いよいよ寅歳が始まりました。壬寅の日に誕生した私に、はたして幸運が来るのでしょうか。
写真は、お正月の「大丸京都店」の四条通口のウィンドウ。「水飲み虎」とデッチーくん。前回アップしたときは、虎の帯(若冲「猛虎図」)を締めたアキオの後ろ姿が写っておりましたが、、、。
実は写真にはアキオが隠れております。さて、どこに?
見つけた人には福が来る【アキオを探せ】クイズ、正解者は、ぜひ二条城へ。二の丸御殿遠侍虎の障壁画の原画が特別公開されています。
写真の説明はありません。

節分備忘録

 京都の節分は、神社仏閣巡りに忙しい。備忘メモを披露。
 2月3日 ①下鴨神社柊社 HPの記載より早く始まり10時20分には終了。ゆえに護符と福豆のみ頂いて帰る。
 タクシーで上賀茂の②大田神社へ。アメノウズメノミコトがご祭神。お神楽で厄落とし。宮司さんに「上賀茂へはもう行かれましたか」と聞かれて(一昨日参拝したのだがと思いつつ)、再び③上賀茂神社へ。大田神社は上賀茂の摂社なのだ。二の鳥居を歩く福豆まきの人々を見て、かつて自分が奉仕したことを思い出す。
 聖護院とか廬山寺に行きたかったが時間切れスマホ電池切れで帰宅。④八坂神社へ。福豆購入すると蘇民将来のお札を頂けるとのツイートを見たためだが、時既に遅く完売。神々に手を合わせた後、バス。
 ⑤吉田神社へ 模擬店がずらり、いつもより空いているが人は結構歩いている。本殿参拝にくねくねと行列。社務所で疫神斎札、稲穂、方相師土鈴、お米を頂き、森口さんのFB見て知った「節分限定」たくあんを買う。狙っていた焼きイワシも購入。ここで髪の毛とカシミヤコートが煙をたっぷり吸っていたが、北大路までバス。「鬼も逃げるイワシの臭い」、乗客の方々ごめんなさい。マスクで緩和されたと信じたい。
 北大路から歩き、神明舎にイワシほか授与されたものを置く。
 ⑥上御霊神社へ。境内では神棚とかお札を燃やしつつあり、大祓詞を唱和。お献酒のお下がりを取りに社務所へ。やがて宮司さんの疫病退散の舞が始まり、福豆を頂く。
 おろし用大根とビール(招福ラベル)を買って、神明舎でイワシを食し、地下鉄で帰宅。掃除不十分だが、入浴後、豆まき。
 ここまですれば厄落としバッチリのはず。
 さ、立春から本当の寅歳、始まり、始まり。
 写真、マスは元旦、境内で樽酒を飲んだ際に、お面は昨年、宝塚清荒神の初不動にて。四つ目方相師の土鈴は吉田神社にて。柊は我家の鉢植えより。
室内の画像のようです

日本は大丈夫

2022年2月2日22時22分。
最近、色々な局面で、たとえば
書類の番号、デジタル時計など、
2並びを見させられることが多い。
何が意味があるのかも。
明日は節分、明後日は立春。
本当の新年が始まる。
国際社会では不可思議なことばかりだけれど、
伊勢に行くと、日本は大丈夫と思える。
人が少ないところでは、地球はやさしい。
ひたすら感謝。心から感謝。

2月は朔日から厄おとし

2月4日は立春。その前に厄落としを念入りにせねば。

京都では2日3日と神社仏閣をめぐる人がほとんど。私の場合は2年にわたった天中殺と昨年の暗剣殺から明けるタイミングゆえ、今年は1日から厄落としを始めることにした。色々な意味で、2月のお朔日詣りは特別である。

節分は「せち分かれ」、春夏秋冬それぞれの終わりだ。古来より、季節の変わり目は時間的な「境界」で、異界からの魔物が訪れやすいと警戒されてきた。節分そのものは年に4回あるのが、「陽」の気に転じる立春の前が最も危険なのである。

その邪気を鬼に見立てて「見える化」したのが現代の節分で、「豆」で退治するのが一般的である。京都では、朝から神社仏閣を巡って厄落としをし、福豆を買い求め、夜はイワシを食す。詳細は「アキオとアキコの京都女磨き」にご高覧にいただきたい。

さて、今年の1日をどう過ごしたかといえば、朝は上賀茂神社の月次祭に参列。コロナでステイホームしていることもあるが、節分前の静けさとでもいおうか。境内は実に静か。しかし、この日はすこぶる天気がよく、頭上には雲ひとつない青空が広がっていた。右からすっと心地よい風が吹いてきた。神気を帯びたといってもいいかもしれない。今日は烏が鳴かないと思っていたら、神事終わりに、遠くのほうで、本当に遠くの方で、かすかに鳴き声が聞こえた。

参拝客の少ない今日は空いているだろうと、帰りに神馬堂に寄る。バスの最後部席で、こっそり買ったばかりのやきもちを頂いた。やわらかくて美味。神さまありがとう。

家に戻り、立春大吉のハガキをしたためたあと、夕方になってから伏見稲荷へ。外国人観光客がいなくなったとはいえ、お朔日の伏見稲荷はそれなりに人が集う。オミクロン不安に残る昨今、昼間の人混みを訪れる勇気はなく、日が落ちてからの参拝にした。社務所は閉まっているが、静かに参拝できる。アキオとアキコの女磨きで火焚祭が取りあげた時から、毎月朔日に参拝している。江戸時代以降、商売繁盛が謳い文句のようになったが、実は五穀豊穣をもたらしてくださるのが稲荷の神々なのである。

明日の2日は仕事をし、3日には神社仏閣の参拝を考えている。はてさて、どうなることやら。

 

節分の禊、我身と我家のどっちを優先?

おかしい。

東京では、節分の2月3日には大掃除の日と決めていた。大晦日にちゃんと掃除ができずに年を越したせいもある。だが、立春こそ本当にスタートのタイミングと踏んでいた私は、節分にはきっちり自分の場を整えて、神々をお迎えするのだと決めていたように思う。

段取りはこうだ。朝から掃除を始めて午後3時ころに大阪鮨に恵方巻をとりにいく。雅子皇后が通っていらした美容室の近くに、小さいながらも美味だった大阪鮨があった。通の間で人気店だったから、前日までに予約し、ピックアップにいくのだ。閉店は夕方。だから時間は限られている。

夜。入浴後に豆をまく。マンションだから静かな声で。鬼門である東北から時計回りで。実はそのころの私は、玄関が東北だと思い込んでいた。後に測定し直したところ、玄関の扉はぎりぎり東にあり、東に向けて開くのだ。だから、鬼門は寝室であり、その窓からまくべきだったのだ。思えば、間違った豆まきをしていたわけだ。

その後、部屋を真っ暗にして、恵方巻を食べる。日本酒とともに。あの太巻きを一気に食べるのだから、どんだけ糖質をとることになるやら。しかし、ここは運気をあげるため、一晩限りと思って、一人で平らげていたのである。恵方に向かって、黙々と。喉を潤すための日本酒を近くにおいて。

幸い、東京のマンションは部屋が7階にあり、夜景が美しかった。20時21時くらいでは、まだまだネオンサインが瞬く時間なのだ。すべての音を消した部屋の中で黙々と食するというのは、自分の願い事の整理にもつながり、貴重な時間だった。

おそらくポイントは、掃除を終えたというところにある。大晦日を逃しても、節分には清潔になることで、リセットができていたのだと思う。達成感もあった。やりきったというような。

ところが、ここ数年、節分の掃除も危うくなってきている。もちろん物を増やした私が悪いに違いないのだが、しかし、京都の節分が独特だからである。

 

ここでは、豆まきの前に神社仏閣を巡り巡って、からだごと厄落としをするのだ。それはそれで、自分の身は浄化されるかもしれないが、複数の自社めぐりは、追い立てられるようで実に忙しい。最初はカメラ持って、2日から節分祭や節分会の様子を撮影していただけだった。それでも、3日の夜中にはヘロヘロになっていたのを思い出す。くわえて、いまは撮影目的だけではなく自分と縁のある寺社をめぐるのだから、豆をまくのがやっと。かつて掃除に当てていた時間を寺社めぐりにあてるのだから、当然の結果である。

神棚や玄関などをきれいにしたら、あとは物が捨てきれないまま、拭き掃除もそこそこに、神迎えの体勢となってしまうのである。

いやいや、愚痴をいうより、まず掃除。わかっているんですけどね。

 

フレンチ茶事の初釜

二度目の大阪勤務になって、京都で茶室付の物件で暮らす女性から初釜にお招き頂きました。若きフレンチシェフを家に招いて、キッチンで作りつつ、という流れ。茶事を貫く型と、若いからこそできるチャレンジ精神の融合。眼福口福、白ワインでぐいぐい飲んでしまいました。お濃茶の前に。お料理の写真は後ほど。

ゴルフ倶楽部

洛北にある京都ゴルフ倶楽部。このゴルフ場は占領軍によって造られた、と巷では語られている。

果たして、それはGHQの占領政策の一貫だったのか、一人の米軍将校の執念だったのか。神が降臨したとされる神山。その神聖な山を削ってのゴルフ場の誕生は、京都の、いや日本に、何かをもたらせたのだろうか。