芒種、そして蟷螂生(かまきりしょうず)にプチ懺悔

6月6日は二十四節気では芒種。七十二候では蟷螂生である。芒種は種まき、あるいは田植えが始まる頃という意味だ。蟷螂は穀物の害虫を食べてくれるから珍重されたらしい。その蟷螂も生まれる季節というので、この名前がつけられたらしい。

私自身、この文字を見るたび、子どもの頃の切ない思い出とリンクして、胸が痛くなるのだ。

生まれは名古屋の寺町。本願寺別院と大須観音の間くらいの地域である。

どうやら、そこは父方の祖父母の家だったらしい。ある日突然、大須観音近くで暮らす祖父母が私の生家に移りたいというので、両親と私は追い出されることとなった。小学校1年生のときである。

あわてて家を探したのが新興住宅地。東山動物園の先の打越という場所であった。現在の地下鉄の駅でいうと、東山動物園の先、星ヶ丘と一社の間である。一社という駅は未だなかった。プレハブの建売が30軒ほど並び、周囲は丘が広がっていた。春にはクローバーが咲き乱れ、といえば聞こえがいいが、小学校へは裏の小高い丘を越えて行かねばならず、雨が降ると粘土風の土に滑ってころんだこともしばしばだった。

家はプレハブでアクセスも不便ではあったが、木々を植えて庭にするだけの土地は十分に備わっていた。園芸好きの祖母(母方)の助けもあって、母はそれなりに土いじりも楽しんでいたのだと思う。後に東京に転勤になり社宅ぐらしをはじめて人となりが豹変する母だったが、名古屋での日々はストレスもなく、かつ植物に癒やされて穏やかな人だった。少なくとも、私が傷つくほどに攻撃されたという記憶はない。

さて、そんな環境だったので、庭の木々には色々な昆虫が存在した。柑橘類には青虫が卵を生み、やがてアゲハになっていったり、近所の丘でヤゴを捕まえてトンボに返したりしていた。

ある日、どこから発生したのか、いきなり「小さな蟷螂」の軍団が私の机の周囲を覆ったのである。何事かと思って引き出しを開けると、奥から枝に産み付けた卵が出てきた。そういえば、冬だったかに、枝にくっついた泡のような塊をみつけ、引き出しにしまい込んでいたのだった。それを数ヶ月放置して、すっかり忘れていた。

よく見ると、本当にかわいいのだ。あの蟷螂の形をした赤ちゃんが、どれほどいただろうか。百匹くらいはいたに違いない。一匹一匹捕まえて観察するなどという余裕はなく、あれよあれよと湧き出た子どもたちを、窓から逃がすのがやっとだった気がしている。そもそも、あんなに小さな蟷螂を手でつまめば、潰れてしまいそうだったのだ。

外で生き延びたかどうかもわからない。どうにか器に入れて育てればよかったのかもしれない。母がどういう対処をしてくれたか、一人でどうにかしたのか、記憶には定かでないのだ。ということは、引っ越してすぐくらい、6歳ころの出来事だったかもしれない。後に調べたところでは、ニ百匹くらい孵り、生き残るのは二匹ほどだというのだが。

あの子たちを守れなかったことが、どうにも罪深い気がして後味が悪い。歳を重ねて「蟷螂生」という呼び方を知ってから、毎年この日になると心が痛むのである。

6月6日。芒種。蟷螂生。欧州ではノルマンディ上陸作戦の日でもある。合掌。

美山荘へ

花背の奥にある美山荘へ、京都に来てはじめて訪れた。なにせ遠いので、車でないと辿り着かない。運転する人がお酒を飲むことができないので、タクシーをチャーターする必要がある。それには、頭数を揃えねばなるまい。しかも、摘草料理は決して安くなく、財力のある美食家を探さねばならない。

そんな条件を満たす美食グループが2年ほど前に結成された。いや、本来の趣旨は、ある方の追悼から始まったのだから、不順といえば不順だが、しかし、ちゃんと食事をとりつつ思い出話に花が咲いているのだから、そこはお許しいただこう。

さて、美山荘ーー。実はNHKナイトジャーナルで取材させていただいたことがある。ここから先は、写真とともに、後ほど。

6月3日は旧暦・端午の節句も虎・寅・トラ

先月、端午の節句コレクションを見に大阪の個人宅へ。虎の帯を締めて来るようにとのお達しが下り、虎の人形(with 竹)とともに撮影いたしました。オーナーご本人のシャツにも虎がいっぱい。いずれも 若冲の虎です。
関西では、毛植えの虎や 張り子の虎も飾るんですよ。兜ではなく 甲冑を飾るのも関西ならでは。柏餅より粽。東京とは、いろいろ違いますね。あの、後ろの正面、だあれ?
ーー  神功皇后 さまです。
この若冲の帯は黒地の着物にあうのですが、5月でも30度超えでは袷は暑くてとても無理。で、この帯に合う単衣を探したら、ありました、黄色の花織。グラデーションで良しとしました。

5月25日も東京大空襲

1945年5月25日夜。22時半から2時間半にわたって、渋谷原宿、品川も世田谷も杉並も、激しい #空襲 を受け、表参道のみずほ銀行前には黒焦げの遺体が山積みになっていました。今宵は犠牲になった人々に思いを馳せて。詳細は『#ワシントンハイツ』第一章「青山表参道の地獄絵図」に記しました.。

錦天満宮 春の大祭

錦天満宮は、京都の台所といわれた錦市場の東端にあります。菅原道真公が祀られているのですが、最近はテレビ番組で井戸水が名水として取り上げられることもしばしば。祇園祭ラバーには、お神輿や、神輿を先導する久世稚児さんとのご縁で特別視されている神社です。25日14時から春の大祭が斎行されました。

次期宮司は現宮司のお嬢さんと決まっています。頭の飾りを新調されたようで、しっかりお写真に収めさせて頂きました。

あまりの暑さに、着物は一見単衣に見える絽。帯は鳳凰の綴れです。

 

蜷川有紀さん個展、日曜日まで

あれは4年前ーー。有紀さんの個展レセプションに出席すべく渋谷公園通りを歩いていると、あれ? 三代目龍村光峯夫人。中に入ると、あれ? 能楽師の河村晴久さん。ここは京都だった?
もちろん、女優や作家がたくさん押し寄せて、東京組もいるんだけど、この京都率の高さは何? と思ったものです。その日は、猪瀬元知事との婚約発表の場でもありました。
猪瀬さんはノンフィクション作家の大先輩。他方、有紀さんとは、服飾デザイナーの鳥居ユキさんのご縁(写真の服もユキ先生のアイリス柄)。朝の番組コメンテータとしてYUKITORIIのお洋服を借りていたたためご招待を受けるようになった東京コレクション。年に2回著名な方々とお目にかかるうち有紀さんともお話するようになり、しかし、ある日、絵も描かれると知って驚きました。さらに、あの猪瀬さんと再婚するというニュースは、目が点!の衝撃でしたが。
舞台「サロメ」が強烈で、女優としての存在感、若いころから注目していました。が、ご本人は子どものころから絵描きになりたかったとか。前回は薔薇一色の印象。実はダンテの『神曲』に挑戦していたのだと知り、感動を新たにした次第。これからの展開が楽しみ!
我家の壁は収納でぎっしりなので、小さめのを購入できればと期待したのですが、どれもこれも欲しいのは、全部赤丸。特にお気に入りの少女の絵は、みんなに愛されているみたい。やはり個展は初日に行かないとだめですね。
そのうち猪瀬さんが会場来られて、例のごとくマイペースぶりを発揮。それを上手にいなす妻ぶりも微笑ましく、最後は、猪瀬さんご自慢の赤いテスラに乗せていただき、西麻布までご一緒したのであります。
個展は日曜日まで。外出したら渋谷駅で下車して、ぜひBUNKAMURAへ。

 

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進化し続ける男

関東の皆さま、ぜひ #日本橋三越 へ。
日展文部科学大臣賞受賞記念・#第十一代大樋長左衛門 展 は17日月曜日まで。
「進化しない男は嫌いだ!」と息巻いていた40代。「君は男に対して厳しすぎる」とよく言われるのですが、当時は特に、前例踏襲主義の官僚やメディア関係者、サラリーマンに苛立っていました。
そんな中、「#大樋年雄」 は「進化する男」として輝いていた友人の一人。そして今回の個展で、20年を経てもなお!進化し続けていることを私は確信したのでした。茶入も、木葉天目も富士山の茶碗も、気になるものは約定済みでしたが、刺激をいっぱい受けるので、ぜひいらしてね。
【追記】
彼の進化の陰には妻の存在があるのです。彼にとって最大の理解者にして、私にとって最高に眩しい存在。この日も素敵な和服姿でお迎えくださったのですが、私は仕事モードの洋服で訪れたので並ぶのが恥ずかしく、別の機会に和服で2ショットをお願いするつもり。

宗像大社、初参拝

福岡の続きは、またまた多忙。未踏の地へと向かった。

博多で目覚めた朝は、宗像大社へ向かう準備。和服で行くか迷ったあげく、伊勢神宮御垣内参拝服を選んだ。沖ノ島へや女性が渡れる道理がないので、ほぼ諦めモードだったのだが、宮司さんへ東京の友人が繋いでくれ、足を運ぶ好機を得た。

博多からJRで東郷へ。そこからタクシー。京都から出雲大神宮に行く感覚である。

詳細はのちほど追記という形で、ここに書くことにする。

唐津焼きもん祭

昨日もまた、忙しい一日。新大阪発、朝7時過ぎの新幹線で、唐津へ。博多のホテルに荷物を預けて、高速バス。茶友で福岡・京都の二重生活をされているマダムAと。

平成最後、令和最初を唐津で過ごし、それ以来。焼きもん祭を少し見て、矢野くんのお茶碗を買う。マダムAのお見立て、わーい。夏に向けて平茶碗として使える。

大島邸でのお茶席では、親子で比翼のお点前。マダムAが見事にお正客を務められ、亭主の和尚がマダムを「岩下志麻さんです」と紹介すると「三木のり平です」とお答えになる。実際、どっちにも似ているのだが、マスクをしているから後者の相似具合が、ご連客にはまったく通じなかった模様。

夜は再びバスで博多に戻り、ご亭主からご紹介いただいたお店へ。おかげで、色々なお料理が、李朝や古唐津などの器に盛られて、口福眼福の夜を過ごしたのであります。

宿泊先は「変なホテル」。恐竜がレセプショニストというので若い人の間では話題らしい。本当は東急ステイにを推薦されていたのだが、日常が戻ってきたら、ホテル代が上がってしまい(安い部屋がすぐに売れただけかも)、予算に見合う若者モードのホテルに泊まる流れになりました。

博多は取材かトランジットでしか来ていなかった街。でも、なんだかワクワクさせるものがある。川面に映るネオンがうつくしい。大阪とは違う魅力がある。若者の姿が目につくのはなぜかな。またまた観察しにやってきたい。

お着物、東京からずっと同じ、藤づくし。3年前と同じでいいのか、と思いつつも、段取り検索と長距離移動で心身ともにヘロヘロだった私。

 

 

 

春日大社、若宮特別公開と藤

奈良春日若宮ご本殿内院の特別公開が24日までと聞いて、急いだ。20年に一度の春日若宮式年造替を記念して、と言われると行かねばと思ってしまう。今年は境内の藤の花が既に咲いているよう。春日大社の神紋は藤。春日大社は藤原氏の氏神さまでもある。

若宮といえば12月のおん祭。漆黒の闇を神さまが降りられて御旅所に向かう。そこで24時間芸能を奉納するのだが、極寒の中、長いダウンを着ようかロングの毛皮を着ようが足先まで冷たくなるので、命がけで鑑賞することになるのだ。

おん祭を最初に拝見したのは四半世紀前。講座の受講生たちと染司の吉岡先生につれてきて頂いた。数年前、京都から出向いただが、観覧席が設けられていて驚いた。大衆的になったのが嬉しいような悲しいような。

その若宮は造替中で神さま不在。よって、社殿境内までアクセスできる。その特別公開が行われていたのだ。

折しも砂ずりの藤がうつくしい季節。今年は花が咲くのが早かった。本殿境内とその周辺。上を見上げれば、山藤もうつくしい。それを期待して藤づくしの装いで訪れた私であった。女性の神職さんや参拝のお姉さま方が関心を示してくれた。神職さんいわく「なかなか和服で参拝する人は少ないのです」と。京都の違い。なるほど。

一人で出向いたので、写真撮影は行きずりのにお願いせねばならぬ。観光客のおじさまにもお願いしたのだが、実は、摂社の周囲で草むしりをしていた若者と、一眼レフを持っていた若い女性が、とても上手に撮ってくれた。白藤と鳥居を背景に入れての構図をお願いした私である(最初の写真)。

藤の小紋には、紫だけでなく白い藤も描かれている。一度、白藤とともに撮影したいと考えた私の念願がかなった。