御蔭神社

今日は御蔭祭。比叡山の麓にある御蔭神社から下鴨神社へ神霊をお迎えする神事です。箕が得神社を出発した後、赤の宮神社へ寄り、下鴨神社へと向かったのでした。

御蔭神社を出発★

足沙式、雨龍図、そして雷


若冲帯 モノクロ絣若冲帯★5月5日の競馬会に先立ち、上賀茂神社で足沙式(あしぞろえしき)が開かれました。

洋服にするかどうか迷った末、前に雷の描かれている雨龍図の帯を締めていきました。上賀茂神社は賀茂別雷神社(かもわけいかづち)ともいわれ、雷の御神威により、あらゆる災難からの厄除でも知られているからです。

その後に寄った誉田屋源兵衛さんのところで、この写真が誕生しました。たまたま訪れていた玉利カメラマンがこの文様に惹かれてシャッターを切ったというわけです。モノクロ写真、いいですね。陰影を計算されての作品、さすがです。この写真は、オリンパスギャラリー大阪(本町)で展示されるそうです。「オリンパスペンEES・オリンパスボディキャップレンズ作品展」(今年8月1~21日(10~18日休館)。

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本番の5月5日には、装束が違いますので、そちらもあわせてご堪能ください。

 

トップセールス外交

安倍総理、120人もの財界人を引き連れて、ロシア、中東などでのトップセールス外交を始めた。アメリカやフランスでは当たり前のこのスタイル、ビジネスの中身については議論の余地がありそうだ。トルコへの原発輸出は国内での反発も大きいと予想される。

日本のロシア公式訪問は10年ぶり。そういえば、安倍総理の父上が外務大臣時代、旧ソ連を訪問していたのを思い出す。植物園には当時、贈呈した桜の木々が存在する。経済使節団を連れたロシア訪問は、中国けん制と、北朝鮮との関係修復に大きな意味がある。ロシアは北朝鮮と密接な関係にあるのです!

 

チェチェンの現実

チェチェン人にとって「誘拐ビジネス」は公共事業だと言った人がいる。実際、チェチェンには、それ以外に経済活動がないという現実を、私たちは知るべきである。彼らをそういう状況に追い込んだのは、旧ソ連の政策、そして、アメリカのブレジンスキの策略だが、これについては、また改めて。

献香式

昨日は上賀茂神社の献香祭に参列。葵祭りに向けての神事のひとつです。実は、私が献香祭に参列するのは二度目。前回は志野流若宗匠の蜂谷宗ヒツさんの宗名披露の翌日、ご一緒したのです。静寂の中、ときどき葉づれと鳥のさえずりが響き、とても清らかな気持ちになりました。

フランスの同性婚

フランス議会で、同性婚と同性婚カップルによる養子縁組を認める「すべての人のための婚姻」法案が可決。賛成331票、反対225票。反対派は国民投票を求めているというが、オランド大統領の公約でもあった。同性婚を認めたのはフランスが14番目。ちなみに13番目はニュージーランド。

プーチンの反応

ボストンマラソン爆破事件、ロシアのプーチン大統領が支援の用意があるとオバマ大統領に伝えたのは、事件の直後、犯人が特定される前のこと。兄弟がチェチェン系と聞けば、既に何か情報を持っていたのでしょう。ボストン市が2年前に爆破事件を想定して訓練していたというのも気になります。

杮葺落四月大歌舞伎

内覧会では鳥肌が立つほどの感動を覚えた新しい歌舞伎座。中で観劇するのは今日が初めてだ。行ってみると、人、人、人、で、内覧のときの感動は半減してしまった。建築物って難しい。完成時に輝いていても、中での営みが始まってみないと真価ははかれない。

楽屋に行ってみると、役者にはいまひとつ不評なのだ。四代目を踏襲してモダニズムに走らずにいてくれて嬉しい私だったが、中堅どころの役者からすれば、新しさがないと落胆が大きい。思い切り変えれば絶対に不満の声が上がったであろうに、さほど変わらなければ、それもお気に召さないとあれば、設計者はどうしたら良かったのだろう。よほど歌舞伎に精通した建築家でなければ、その匙加減は無理だ。そんな建築家が平成日本に存在するとは思えない。

5列目ど真ん中で拝見できて幸運なのだが、以前ほどうれしくないのはなぜだろう。やはり勘三郎さんの存在が大きかったのだろうか。肌も体のラインも若いころの水準を保とうと日々努力している玉三郎さんは見事だったが・・・。

会場では書塾生に遭遇。劇場を後にして銀座で開かれたエンジン01の総会に出席。夜、帰宅すると揺れを感じた。震源地は銚子だという。先日、京都にいるときにも淡路島からの揺れが来た。なんだか地震に追いかけられている感じで怖い。

歌舞伎については、もう少し整理して、改めて書きます。

 

 

スーチーさんに思う

ビルマのアウンサン・スー・チーさんが来日。龍谷大学での名誉博士号授与式に出向いた。

私自身、午前中は大阪で仕事があった。その間、彼女は京大、裏千家今日庵で過ごしていた。全体にスケジュールが押していたのと出迎えた学生たちとの触れ合いに時間を費やし、予定されていた講演は短いものとなった。仏教を通した民主化がテーマだったので、もしかしたら、最初から簡単なものしか用意していなかったかもしれない。

私が彼女に会ったのは1996年初め。独立記念日に彼女の自宅で開かれる野党NLDの集会にもぐりこんだところから始まる。当時は軟禁状態だったので、そこに至るまでも書けば長い話だが、ビルマの党員のふりをして中ではまず息子と仲良くなり、つないでもらったのだった。その日は熱があるとのことで、短い会話にとどまったのだが、それでも彼女の人となりは伝わった。女性としては十分すぎる魅力がある。

最近のスーチーさんを見ていると、ビルマ人というよりイギリス人かな、と思う瞬間が多くある。留学だけでは身につかない何かがある。軟禁状態にあったとはいえ、これまでの生活費や活動資金など、英米からの援助が大きかったと私は推察している。

自宅は豪邸で、中で党大会ができるほどの広さがあった。当時インドネシア民主化のシンボルだったメガワティさんの自宅よりはるかに広いと記憶している。もっとも、先にスーチーさんに会っているので、その記憶もアテにならないのだが。

民主化のシンボルから大統領になるまでの道のりは長い。インドネシアはスハルト政権崩壊後の政治闘争の中でメガワティさんが大統領の座についた。軍事政権を残したまま民主化が始まったビルマでは、いきなりスーチーさんがトップには立つことは難しい。

彼女に信念はあるが、政治闘争を勝ち抜く力や統治能力は別物である。だが、ビルマが不安定であることはまた、外から関与しやすく、英米の望むところではある。彼女が大統領になる日が来るとすれば、英米の力が強く及んだ時だと考えていいだろう。