4月7日  「泥沼化」と焦る人々

 今週に入り、国際政治学者が異口同音にイラク情勢について、「ベトナム戦争」とか「泥沼化」というレトリックを用いて語り始めた。

「アメリカは引くに引けない事態になった。次に誰が政権をとっても、

解決の糸口がみつけられない辛い立場に立たされる」

―――そんなことは最初から予想できたでしょうに。なんでいまごろ?

ブッシュの仕掛けたイラク戦争を批判的に語るリベラル派の学者といえども、どこかで力で抑えられると信じていたところにも、アメリカ人の傲慢な目線を感じてしまう。学内だけでなく、テレビにコメンテーターとして登場する人々も、みな突然、「ベトナム化」を口にするようになった。

 事の発端は、アメリカ軍「兵士」の逆さ吊り事件。ファルージャ籠城のきっかけになった、米国民間人4名の焼死体がさらされた事件である。あの写真が先週の木曜日、新聞の一面を飾ったことから、ワシントンでは人々が事態を深刻に受け止め始めたのだ。

そもそも、この戦争に大義はなく、民主化を謳うのであれば、イラクの研究を十分にしてから始めるのが筋だ。フセイン後のイラクについて、何のヴィジョンも持たずに戦争をしかけたブッシュ政権の愚かさのツケとしか言いようが無い。フセインを取り除いたイラクがカオスになるのは誰に目にも明らかで、かつてかの地の統治に梃子摺った仲良し同盟国のイギリス人からなぜ学んでおかなかったのか、その詰めの甘さがそのまま答として現れたのだと思う。

もっとも、ベトナム戦争についても、マクナマラが自身の回顧録で、ベトナムについての地域研究が役に立たなかった、と語っているように、国費をかけて研究したところで、肌の色が違う人間たちに対しての理解度はすこぶる低いのだろう。彼らの瞳には都合の悪いものは映らないようにできているのかもしれない。いや、あまりに大雑把で、肝心なことはザルの隙間から抜け落ちるのだろう。

相手の国も民族も理解できないのに民主化だなんて、傲慢以外の何といえばいいのだろう。フセインを悪者にするだけで、一人一人のことは何も見えていないのだ。いつも地球儀を眺めている彼らには、それは無理からぬこともしれない。ただ肉を鉄板で焼けばいいと考える大味な感性が、外交にも反映されてくるから怖い。

ネオコンの牙城PNACを訪れ、ゲイリー・シュミットと話したとき、中東の理解がとことんずれていて、会話がかみ合わない上、途中から先方が怒り出したのが印象的だった。

私がこう尋ねたからだ。

―――イスラームについて、勉強されたんですか。

 ジョージタウン大学に一度、イラクの民主化推進グループがやってきたことがある。その部族長のカリスマ性のあること。あんなのがゴロゴロしていたら、よほど強いリーダーがいないと、あの国は束ねられないだろうと思う。アフガニスタンでも、カルザイの統治能力が早くも疑問視されている。国家建設がいかに大変なのかは、歴史が語っているはずなのだが。

3月31日 アメリカの遺書

大学時代の友人が再婚した。彼女はアメリカ留学を経て30歳くらいから国際機関で仕事をしているが、アメリカで離婚と再婚を体験したことになる。相手はいずれも日本人。だが再婚相手はやはりアメリカや海外赴任が長く、マルタイナショナルは感覚を理解できる人のようだ。しかも、もう成人した子どもがいるので、友人は子育てを経ることなく、いきなりステップマザーになったのである。
 先日、彼女の夫が遺書を作成することになったという。再婚した彼には先妻との間の子どもがいるので、作っておくべきだということになったのである。その遺書が面白い。ありとあらゆる想定が必要で、さすがシミュレーション教育の行き届いたアメリカだと思い知らされた。たとえば、彼の不動産などの資産を妻に相続するとしたら、彼女が死んだときにはどうなるのか。息子に資産を残すとしたら、彼が結婚したときはどうなるのか。つまり、息子が死んだ場合、孫がいなかったら財産をそのまま、会ったこともないお嫁さんに譲るのでいいのか、それとも再婚相手が健在なら、その継母に移すのか、あるいは寄付するのか。そうしたシミュレーションを50年先まで行ったうえで、ありとあらゆるケースに対して、故人の「ウィル」を尊重するというわけだ。
 これは妙案である。人生ゲームのように、自分と縁のある人々の順列組み合わせを考え、そこに故人の意思を反映させるのである。遺書というと縁起が悪いと考えがちだが、死んだ後も脈々と故人の考えが貫かれるのだから、それこそ「ウィル」なのである。日本でも皆、考えてみたらいい。一度相続したら、そこからラグビーボールのように、わけの分からない方向に流れていくのではなく、故人が納得のいく方向で財産が生かされるのである。
実は、この話が出たのは、私たちの共通の友人の近況話からであった。その友人の場合、彼女の家に資産があるのだが、夫との間に子どもがいないため、お母さんが相続に難色を示しているという。つまり、娘が早死にした場合、全額がその夫のものになると思うと釈然としないというわけだ。いっそ離婚でもしれくれれば、生前贈与も考えるのに、と彼女のお母さんはもらしているらしい。
 こうした考えはよく耳にする。自分たちが築き上げてきた財産を血のつながった孫が受け継ぐならいいが、他人に持っていかれるなら別の子どもに回したい。日本の高度成長期を支えた親なら、当然の発想である。そして少子化が進む日本ではますます、こうした問題に直面することになるのであろう。
 そこで、夫にならって友人も「ウィル」作成を考えるという。彼女の場合、縁ができたばかりのステップ・サンに、たとえば彼女所有のアメリカのアパートを譲るのか、それとも寄付を考えるのか。それとも実弟に譲るのか。だが、その夫婦には子どもはいない。寄付の場合、よほどその団体を吟味して、ここぞというところが見つからないと実行に移せない。
 私はどうするのだろう。幸い私には姪がいるので彼女に譲ることにしよう。しかし彼女が結婚した場合はどうしよう。一人で生きていくなら多少の蓄えも役に立とうが、彼女がとんでもなく甲斐性のない男として別れるときに吸い取られたのではたまらない。
・・・などと皮算用をしてみたところで、現実的な問題は、それだけの資産を残せるかどうか。自分で食い潰して、せめて彼女のお世話にならないことがやっとかもしれない。
 いずれにせよ、「ウィル」の作成は、自分の人生設計をあれこれ思い描く意味でも、日本で流行らせる価値はある考え方ではある。

3月19日 大統領のうつわ1

今日はイラク攻撃から1年。タイミングを合わせたかのようにアルカイーダのNO2を包囲したというニュースが飛び込み、朝から報道番組はアメリカ外交一辺倒だ。ワシントンの教育機関に爆弾が仕掛けられたとかで、公立学校はみなお休みとなる。大学関係者もこの情報に腰が引けて、「ブッシュのせいで自分たちの日常がこんな脅威に置かれてしまった、いい迷惑だ」と怒る始末。私はといえば、図書館に通いもせず、ジョージタウンの町を歩いてそそくさと帰ってきた。
はるか台湾では、総統選挙がおこなわれる。その前日に総統・陳水扁が副総統・呂秀連とともに撃たれ、衝撃が走った。きっと彼に同情票が集まるだろう。瞬間、私は「自作自演」を疑ってしまった。というのも、今回の選挙は、前回負けた二人、つまり国民党の連戦党首が総統候補、親民党の宋楚楡党首が副総統候補として一本化しているため接線になりそうからだ。対して、陳氏は国際社会の注目を集める作戦にかけていた。レファレンダムを狙っていたのだ。「中国が台湾に向けて496基のミサイルを配備していることに対して直接投票を実施する」と総統権限で言い出していたのである。その延長線上の出来事だったから、ワシントンでも一部で、「自作自演説」が広がったのはもっともだ。私の直感的な反応はしかし、そこにあるのではなく、私自身、陳氏をあまり評価していないことから来ている。
私の陳水扁の力量への疑いはすでに10年前、90年代半ばに遡る。こうした考えのもち主はそのころ、きわめて少数派だった。95年、現総統が台北市長時代、当時の総統・李登輝が台北で投票するにあたって、彼はそこに随行していた。その腰巾着そのままの姿から、彼の指導者としての器を信用できずにいる私だったが、台湾の友人たちはこう言ったものだ。
「僕たちはそれこそ彼が戦ってきた姿を見てきたからね」
85年の選挙で遊説の際、呉淑珍夫人がトラックにひかれ下半身不随になった。この事故は外省人による政治的テロだったとの見方が主流だ。そうした事件を通して彼への支持は高まり、台湾独立機運とともに彼は台北市長、そして総統に選ばれるに至ったのである。彼は「台湾独立」を願う人々の期待の星だった。貧しい農民の子である彼が政界に踊りでる姿も台湾の高度成長と重なったし、妻の呉淑珍夫人が車椅子生活を余儀なくされてもなお、台湾のために闘い続けるという姿勢が人々をひきつけたのであった。言ってみれば、彼は時代の申し子だったのかもしれない。
くわえて国際社会の評価も高かった。欧米の経済誌かニューズマガジンで21世紀の期待される政治家100人(ビジネスマンも含まれていたかもしれない)の中に、彼はランクインしていたほどである。
しかし、彼はその内外の期待を見事に裏切った。就任してすぐ、台湾人の間では台湾の将来に対する不安とともに彼の指導者としての力量に失望感が広がっていった。02年に私が久しぶりに訪れた台北では、人々の間ではこんな日常会話が広がっていた。
「台湾でこのまま餓死するか、大陸に乗り込んで一発勝負をかけるか。それ以外に我々台湾人に生き残る道はない」
台湾経済が低迷する一方で、中国の発展には目を見張るものがある。独立どころの騒ぎではなく、自分たちがどう生き残るかが問題だ、というのである。日本同様、経済苦で自殺する人々も多いのだといっていた。折しも、陳総統は金融政策の失敗などからその支持率が政権発足以来、最低だった。
今回の事件がきっかけで、同情票から陳氏に投票する人が出てくるであろう。しかし、かつてのような期待はない。もっといえば、選挙に対して盛り上がりにかける。中国の勢いの前に、一部の推進派を除けば、かつて独立を支持していた人々は弱気になっている。
さりとて、対抗馬の連戦候補が当選すればいいかといえば、李登輝政権の副総統だった彼には、まったく人徳がない。悪しき国民党のイメージ、いわゆる「黒金政治」のイメージを払拭することは不可能だ。「黒」とは黒社会(マフィア)、「金」は金権政治を意味し、台湾の腐敗政治を意味する表現であるが、国民党はそのイメージが重すぎて、人々は投票に後ろ向きになるのである。かくなる上は、国民党が早く世代交代をすることである。台北市長の馬九英を上手に育てれば、まだ芽はある。マスクがいいこともあるが、彼には爽やかなオーラがある。これは、指導者として必要最低条件だと私は考えている。残念ながら、陳氏はそうしたオーラに欠けているのだ。
つくづく李登輝は大物だったと思わされる。昨年、マレーシアのマハティールが首相の座から退いた段階で、アジアの指導者が軒並みこつぶになった。時を同じくして、かつて朝貢貿易でこの地域を君臨した中国の台頭が重なることは、必ずしも偶然ではないだろう。
新しいアジアの歴史は中国を中心に流れが変わろうとしている。

3月16日 ワシントンの春

ワシントンDCに帰ってきた。もう、街はすっかり春の装いだ。モクレンと見紛う赤紫のマグノリアが、そこここに咲き乱れている。街路樹の中には桜の蕾が開き始めたものさえある。
父の訃報を受けてここを発ったのは2週間前。空港に向かう間、車窓が滲んで何も瞳に映らなかった。覚悟はしていたのに、どう受け止めていいのかわからない。危篤と聞いて2月に飛んで帰ったときには安定した状態が続き、1週間の滞在の末、父の生命力に感動した医師がアメリカにいったん戻ることを薦めた。それから10日あまり経ち容態が悪くなったのは突然のことだ。父の最期に私は間に合わなかった。すれ違いの親子は最後まですれ違い。私は最後まで親不孝な娘だった。
日本へ帰国するため、スーツケースを持ってアパートを出ようとすると、黒人の女性レセプショニストが、続いてマンションの管理責任者である白人女性が奥の部屋から出てきて、私をしっかりと抱きしめたことを覚えている。父が倒れてから長いこと日本との往復を重ねていたため、玄関の受付に交代ですわる彼女たちは、私が置かれていた状況を十分に承知していたのだ。
 日本の伝統に伴う儀式を終えて再びワシントンDCに足を踏み入れた私を、この街は春の花々とともに迎えてくれた。どこのアパートメント入口の花壇にも、スイセンやチューリップ、パンジーが色とりどり満面の笑みを浮かべるかのように花を咲かせていた。あの時見た冬枯れのワシントンはどこへやら。このままだと、すぐに桜も満開となりそうな勢いだ。
 昨年の夏からずっと木々を観察して考えているのだが、どうやらこの街と日本は土が似ているらしい。子どものころから路上で目にした植物が、そのまま存在している。どこの国を訪れても、植物の違いがゆえに、いやおうなしに異国にやってきたことを思い知らされるものだ。だが、欧州の町並みに似て石の建物が立ち並ぶこの地が、最初からとても懐かしく感じられるのは、そのせいではないかと思っている。
 最上段の郵便ポストを開けると、いっぱい詰まったメールの中から“With Sympathy”と書かれたカードが2通届いていた。ひとつはマレー人女性の大学教授から、もうひとつは私を抱擁してくれた黒人女性のレセプショニストからだった。そして翌日、大学の仲間たちからフラワーアレンジメントが届いた。
 春の訪れはなんと尊いのだろうか。父との別離は予想以上の哀しみをもたらした。しかし、私は異国のこの地でそれを乗り越えることができる。アパートメントの窓から風に揺れる花々を見下ろしながら、私はそう直感したのである。

3月16日 ワシントンの春

ワシントンDCに帰ってきた。もう、街はすっかり春の装いだ。モクレンと見紛う赤紫のマグノリアが、そこここに咲き乱れている。街路樹の中には桜の蕾が開き始めたものさえある。
父の訃報を受けてここを発ったのは2週間前。空港に向かう間、車窓が滲んで何も瞳に映らなかった。覚悟はしていたのに、どう受け止めていいのかわからない。危篤と聞いて2月に飛んで帰ったときには安定した状態が続き、1週間の滞在の末、父の生命力に感動した医師がアメリカにいったん戻ることを薦めた。それから10日あまり経ち容態が悪くなったのは突然のことだ。父の最期に私は間に合わなかった。すれ違いの親子は最後まですれ違い。私は最後まで親不孝な娘だった。
日本へ帰国するため、スーツケースを持ってアパートを出ようとすると、黒人の女性レセプショニストが、続いてマンションの管理責任者である白人女性が奥の部屋から出てきて、私をしっかりと抱きしめたことを覚えている。父が倒れてから長いこと日本との往復を重ねていたため、玄関の受付に交代ですわる彼女たちは、私が置かれていた状況を十分に承知していたのだ。
 日本の伝統に伴う儀式を終えて再びワシントンDCに足を踏み入れた私を、この街は春の花々とともに迎えてくれた。どこのアパートメント入口の花壇にも、スイセンやチューリップ、パンジーが色とりどり満面の笑みを浮かべるかのように花を咲かせていた。あの時見た冬枯れのワシントンはどこへやら。このままだと、すぐに桜も満開となりそうな勢いだ。
 昨年の夏からずっと木々を観察して考えているのだが、どうやらこの街と日本は土が似ているらしい。子どものころから路上で目にした植物が、そのまま存在している。どこの国を訪れても、植物の違いがゆえに、いやおうなしに異国にやってきたことを思い知らされるものだ。だが、欧州の町並みに似て石の建物が立ち並ぶこの地が、最初からとても懐かしく感じられるのは、そのせいではないかと思っている。
 最上段の郵便ポストを開けると、いっぱい詰まったメールの中から“With Sympathy”と書かれたカードが2通届いていた。ひとつはマレー人女性の大学教授から、もうひとつは私を抱擁してくれた黒人女性のレセプショニストからだった。そして翌日、大学の仲間たちからフラワーアレンジメントが届いた。
 春の訪れはなんと尊いのだろうか。父との別離は予想以上の哀しみをもたらした。しかし、私は異国のこの地でそれを乗り越えることができる。アパートメントの窓から風に揺れる花々を見下ろしながら、私はそう直感したのである。 

2003年8月9日

京都薬剤師会のお招きで、京都に講演にでかけた。文部科学省の薬学教育の改善・充実に関する調査研究協力者会議の委員でいらっしゃる京都大学の乾先生のお声がけで、日ごろ会議で発言していることなど、薬剤師の方々に発破をかけ、エールを送るのが目的だ。

 夕方からの講演会だったので、その夜は宿泊することになっていた。会場の隣にあるホテル・グランビアに 5時にチェックインという予定だったが、台風による新幹線の遅れが心配されたので、少し早めに到着した。

 で、レセプションでの出来事である。頂いた書類に「秋尾沙戸子さまのお名前で予約を入れていますので、その旨受付にお申し出ください」と書かれていたので、その旨を訊ねると、名前がないのだという。あれこれ探して貰っても駄目。そこで書類に書かれていた番号や乾先生の番号、講演会会場などに電話してもらったが、どこも誰も出ない。実は他のホテルの間違いだろうか。私の後ろには何人も列を作って待っているのに、そんな作業で20分が過ぎた。時間通りに5時に来ていたら、さぞかし苛ついたに違いない。

 結局、名前はみつからないが、勝手にチェックインしてしまうことにした。本当にこのホテルでよかったのかどうか確かめるべく携帯で電話をかけ続けていると、部屋に着いてすぐ電話が鳴った。

「申し訳ございません。こちらの手違いで秋尾さまのお名前がありました」

「どういうことですか」

「秋尾様が青木様で入っておりました」

私の名前がアオキと聞き違いされることはよくあることだ。しかし、JR西日本経営の、京都駅に聳える一流ホテルがどうしてそれをみつけられないのだろうか。ましてや京都は観光地だ。もてなしの心が生きているはずの京都で、この扱いはひどすぎる。海外からの客の場合、名前と苗字が反対に登録されることもある。アキオでみつけられなければ、サトコで検索するのはレセプショニストとしては常識ではないのだろうか。だんだん腹が経ってきた。私の貴重な20分を返して欲しい。海外ならすぐにグラスシャンパンでも持って謝りに来るのに。

「どうしてこういうことが起きるのでしょうか。お宅では名前で検索する教育はしていないのですか」

 電話口に出たレセプションの責任者に私は続けてこう尋ねた。

「経営はどちらでしたっけ」

しばらくして、レセプションの責任者がドアをノックした。

「申し訳ございません。このフロアのもう少し広いお部屋をご用意しまいしたので、よろしければ、そちらにお移りください」

 これは意外な展開だった。ホテルはサービス業だ。クレームをつけることは私にとって世直しの一環。不手際の原因を突き止め反省してくれれば、それで私は満足なのだ。しかし、少し広めのお部屋がどんなものか興味があったので、その申し出を受けることにした。

 なるほど、いきなり部屋の数がひとつ増え、数もワンランクアップ。バスルームの窓から空が見える。ちょっと得した気分である。

 講演の冒頭で私はこの話をした。病院の中でも同様に、もうひとつ機転を利かせれば、もうひとつ違う角度からチェックをすれば、事故を防げたのに。これまでの医療過誤でもそういうケースは多々あったはずだからだ。

 会場に集まった薬剤師の方々は、非常に熱心に話を聞いてくださった。ただ、もったいないのは彼らの熱意が世間一般に伝わっていないことだ。調剤薬局はともかく、病院では薬剤師の顔が見えにくい。ようやく病院によっては病棟薬剤師として病室の患者と薬剤師が向き合う試みがなされるようになったが、入院経験がないとその努力が伝わらないのがもったいないと思う。

 講演会の後に一部の方々とお食事をした。ベテランの女性薬剤師2人がそろって口にしたのは、処方箋をみると開業医の力量がわかるのだという。これこそ医薬分業の妙だろう。医師免許をとって、以後ろくに勉強もせず、のんびり開業をしている医師へのいい刺激になる。

 部屋に戻って、お風呂に入った。そこからは向かいのビルの屋上しか見えない。京都の町はフラットだ。高層ビルは滅多にない。そんな中で町の薬局の姿も目立つ。夜遅くまで明るすぎるほどの灯りを放つドラッグストアとコンビニに占拠された街とはわけが違う。

コツコツと一人一人の営みが生かされる町でもある。サービス業としてはあるまじき失態を演じた大きなホテルでさえ、申し入れれば対応し改善できる余裕がある。日ごろの乾先生のお言葉どおり、京都の薬剤師会から日本の薬剤師の意識を変えるということは、あながち夢でもないなあ。窓からネオンの少ない夜空を見ながら、ふとそう思った。

2003年7月24日

小さな引越し

突然、家具を移動しようと思い立った。

いまのところに移ってから6年。この間に修士論文を書いて本を書いて、気づいたら本と資料の中に埋もれてしまった。もとより衣裳部屋はクリーニング屋さんのように服が詰まっている。しかし、仕事場とリビングは当初、整然としてたが、いまや寝室にまで文献資料があふれているのである。

かくなる上は、引越しモードにして、強引に片付けるように自分を追い込もうではないか。どうせなら、運気があがるレイアウトにしよう。

実はここに引っ越すときもコパの本を熟読した。いや、読み比べたのである。彼は著書によって言っていることが微妙にずれる。最大公約数的に、彼の説に従わねばならない。

西南にあったピアノを東南に動かし、東南にあったサイドボードを西に置いて窓をふさぐことにした。だが、トラックの必要な引越しとはわけが違う。家具の移動だけだ。とはいえ、ピアノの運搬となると、然るべき業者にお願いせねばなるまい。

日ごろ、ポストに入っているチラシに片っ端から電話した。1日に4軒、見積もりをとってもらったが、各社個性があって面白い。3万円から14万円まで。先方が提示した値段はいろいろだった。ピアノも含めて3万円は胡散臭いが、10万円は取りすぎである。ここへ移ったとき、お任せパックとトラックの輸送費、2日間の人件費を合わせても18万円だったのだ。せいぜい7万円台が妥当だろう。

面白いのは、見積もりを取りに来た人が即決で答えを欲しがることだ。気持ちはわかるが、朝一に来たところが3万円だから具合が悪い。思いきり無理をして8万円弱と言われても、やはり3万円には未練が残る。それに、せっかく4社のアポ入れをしたのだから、すべての対応を比べてみないと、決められないではないか。

最後にやってきたところは、やはり8万弱を提示した。一瞬、そこに惹かれた。見積もりに来た人のキャラが明るく、分りやすかったからだ。しかも彼が正直だと思われたのは、「これだけ荷物が多いのだから、時給で計算しませんか」と提案したことだ。しかも彼は当日自らが来て陣頭指揮をとるのだという。事前に段取りをシミュレーションした上にこの提案だから、説得力がある。

それにしても気になるのは3万円だ。そういう業者がいるのに、2倍半かける気には人間なれないものである。再度電話で確かめて、本当に可能かを確かめて、結局、そこにお願いすることにした。

驚いたのは当日、大の大人が4人も来たことだった。お任せパックで引っ越したのは過去に2回。一度は手馴れた主婦が食器などを梱包した。二度目は茶髪の若い男女が梱包を担当した。50前後の男性が4人、一度期にやってくるとは想像だにしていなかったのだ。しかも、ため息ばかりつくうるさ型も一人いたが、なんだか皆いい人たちで、下町で近所のおっちゃんたちに助けられているような錯覚を覚えた。

なにせ我が家は物が多い。家具を移動させるには、まず床に積んであった本と雑誌をダンボールに入れて外に出さねばならない。ピアノの移動もシャーリングの布を使って床に傷つけることなくずらしてくれた。いやあ、お見事。子供のころにピアノの運送というと、肩にかつぐものと相場が決まっていた。あれでは腰を痛めるだろうなあ、といつも眺めていたものだが、いやあ、お見事。ピアノを動かした段階で、2人は別のクラインアントにシフトし、残った二人がダンボールを部屋に運んで積み上げてくれた。

終わったころには、へとへと。アミノ酸の取材でお試しモードの私は「アミノバイタル」プロを飲んで引越しに臨んだから、屈伸運動の後にもかかわらず、筋肉疲労は一切なし。だが、神経がくたびれているのだ。何をどこにどう効率よく入れて運ぶか。その集中力、瞬発力は、半端ではない。骨の髄まで疲れている。もう頭がまわらない。

寝室のベッドの上に臨時に置いたグラスが残っているけれど、これは明日にまわしてもいいかしらん。

リビングの床にふとんを敷いて、どっ。なだれ込むように眠った。

2003年7月8日

日本一の米作り職人

7日から活性酸素消去米の取材で昨日から仙台に行ってきた。そのプロジェクトの一人、石井さんの田んぼも拝見させていただいた。

世界各地で畑や田んぼを訪れ、その風景にある種の郷愁を抱いてきた私だが、この年齢になって日本の農家を訪れると感動を覚える。これこそ日本の原風景だと思えるからだ。

みずみずしい緑の田んぼに、白い鷺が降り立った姿は実にすばらしい。しかし、鷺はどこにでも宿るわけではない。石井さんのところのように、無農薬で稲を育て、微生物が存在する田んぼにしかやってこないのである。

石井さんの作る米が他を圧倒する理由のひとつは、田植えの時期にある。他より一ヶ月ほど遅いのである。いや、正しくは他が一ヶ月早めてやっつけ仕事にしているのだ。いまや大半の農家は米作りだけではやってゆけない。そこで勤め人となり、その間に田植えを行う。つまり、ゴールデンウィークに終えてしまうというわけだ。

そうした田んぼは全面が緑である。ところ狭しと葉が生い茂っているのだ。そうなると、葉が養分を吸い上げ、化学肥料を与えざるを得ない。しかも稲の穂に栄養分がいかなくなる。

それに比べて、石井さんの田んぼの稲はまばらに映る。葉が少ない。しかも水面は藻の緑に覆われている。こういう稲こそ、おいしい米を育むのである。

毎年、金賞に輝く米作り日本一の石井さんの作る米は、低蛋白米だ。正確には、低蛋白米を作ろうとしたのではなく、発酵米糠でおいしい米作りを追求した結果、低蛋白米ができたというのが正解である。

その石井さんが今年から活性酸素消去農法を取り入れることになった。こちらも無農薬で低蛋白米だが、1年経っても味が落ちないのが特徴だ。つまり、一年中「新米」で、老化現象が起きないというわけだ。

活性酸素消去農法で育てた作物は簡単に「錆びない」。たとえば、石井さんが育てている韮。畑から葉をちぎって食べていると、あまくてびっくりする。刈り取った後も、普通の韮の倍は葉が元気な状態である。生の韮なんて・・・と思うかもしれないが、本当にあまいのだ。これは中華の炒め物にしてはもったいない。和食屋で「生のまま」食べるべきである。

だとすれば、人間もこれを食べ続ければ、「錆びない」わけだ。そう信じて、昨年できた活性酸素消去米と納豆にわかめのお味噌汁を食べている毎日。この半年、家にいるときにはシラタキ・ミートソースで体重をキープしてきた私だが、お米がおいしすぎて、1キロ増えてしまった。その分、運動しろということか。

2003年7月3日

月下氷人

夜9時から六本木ヒルズの個室で食事をした。建築家の隈さんとEZTVの矢野さんをお見合いさせるためだ。

最近、こうした月下氷人役を買って出ることが多い。仕事柄、大勢の人々に会う機会に恵まれてきた私だが、才能のある人々を引き合わせることも自分の任のような気がするからだ。新たなコラボレーションに喜びを見出すのは年老いた証拠かもしれない。

隈さんがトイレに行った隙に関西弁で矢野さんいわく、

「目茶目茶、頭いい人ですね。質問に対しての答が明確だわ」

隈さんの建築に対しての考え方を聞けば、彼が時代をどう捉えているかよくわかる。その目線の鋭さと深さに感動したのだと思う。

食事の後、隈さんが設計した図書館を見に行った。二ヶ月ほどまえ前に会った新聞記者がプレオープンで図書館を見学して、メンバーになろうか検討中だと話していたので、一度入ってみたいと思っていたのだ。

なるほど、自分の仕事場では得られない空間。東京の街を見下ろしながら、あらゆるオブリゲーションを全部投げ出して、読書三昧してみたくなるのは頷ける。デスクも椅子も非日常的なのがいい。サラリーマンだったら、家や職場を離れて、ここで小説のひとつも書いてみたくなるに違いない。いや、狭いマンションに住む主婦にとっても、家事や育児、介護からの逃避行的空間になりうるのだが。

そうだ。そんな二人の恋の物語もあるかもしれない。そういえば、「恋に落ちて」の始まりもNYの本屋さんだった。

帰りのタクシーの中での会話によれば、隈さんも矢野が気に入ったらしい。西麻布で私を降ろすと、外苑前の事務所へ戻っていった。売れっ子は夜中も仕事に忙殺される。

彼らが恋に落ちるかどうか。残念ながら、私の任はここまでである。

2003年7月2日

午前中は文部科学省の薬学教育の改善・充実に関する調査研究協力者会議に出席。

午後はぴあ・フィリムフェスティバル表彰式の打ち合わせ。昨年もお声をかけていただいたのだが、早稲田大学でメガワティの講義をすることになっていたので、お受けできずにいた。なんと今年で25周年だそうだ。継続は力なり。このフェスティバルから大勢の映画人を輩出してきた。打ち合わせをしながら、ウズベキスタン映画に出演した経験を熱く熱く語ってしまった。

赤坂サントリービルの1階ペンディオロッソ(赤坂のスペイン語訳)にいたので、広報部長の浜岡氏を訪ねた。彼は私の同期。あのままサントリアンでい続けたら、今頃私も課長くらいにはなっていたのだろうか。

その後、別の友人からお呼び出しがかかり、新しいプロジェクトの話を聞かさせる。郵政公社でも序々に動きがあるらしい。

 「スパモニ」が終わったら、打ち合わせ攻めの日々が続いている。