6月6日 フランスとの手打ち式

「Dデイ60周年式典」の模様が夜明けから中継されている。アメリカとフランスが共に戦った日々をなぞりつつ、ブッシュはシラクとイラクについて話す機会を得て、この後、サミットでさらに進展する可能性が出てきた。シラクにとっても、この式典はアメリカと歩み寄る、わかりやすいきっかけとなるのだろう。

それだけでも運がいいのに、昨日は元大統領レーガンが亡くなって、レーガン+共和党の功績をたたえ、共和党万歳モードである。あの「楽観主義」が良かったと語るコメンテーターたちばかり。これを現大統領ブッシュが自分にどう引きつけて語っていけるか。先輩の遺産をどう生かせるか。彼の腕の見せ所である。

80年というと、時代の空気が全く違う。大統領選挙から25年が経ったのだとしみじみ思った。一連の追悼番組は、共和党支配の良き時代を振り返る好機となった。彼のラジオアナウンサーとしてのしゃべりのうまさは、スピーチによく生かされている。彼の笑顔や愛想の良さも愛された理由のひとつだろう。ブッシュ親子には、そのいずれもない。特に息子はその才能に欠ける。しかし、根暗かといえばさにあらず。適度に楽観主義的ムードが漂うところが、ノーテンキなブッシュ支持につながっているのだろう。しかし、本人が楽観主義なだけでは危うくて仕方がない。そこを、アメリカ国民がどのくらい自覚しているかが問題である。

スピーチのうまさで負けていないのがクリントンだ。もうすぐ自伝が出る彼は、先取り宣伝講演ツアーをはじめ、これがケリーにマイナスに思えてならない。クリントンが輝けば輝くほど(その模様はC―SPANで放送されるので)ケリーがしぼんで見えるからだ。

実は多くの民主党員はケリーに満足していない。しかし、民主主義の手続きを踏んだ結果に誰も文句はいえないのだ。かくなる上はケリーを党をあげて応援しよう。決まったことに対する腹のくくり方において、アメリカ人は立派と思えることが多々ある。

 昨日電話で話した友達によれば日本ではケリー候補が勝てるという空気があるらしいが、私はブッシュが勝つと思う。在米日本人はほとんどそう考えている。ケリー候補になっても事は同じで、東アジア無関心という分だけ、日本には不利だという説が大半だ。

大統領ブッシュが閣僚人事を大幅に変えれば何か望みも持てそうだが、調べれば調べるほど彼は副大統領チェイニーに頭が上がらないことがわかってきた。6月末に政権移譲が行われ、イラク統治にアメリカ独裁の匂いが薄まれば、共和党はこの危機を乗り切れる。あとはレーガンの思い出をどう上手に散りばめるか、スピーチライターと大統領のスピーチのスキルにかかっているが、ブッシュの場合、実はこれが問題なのである。

それにしても、「Dデイ60周年」とはいいタイミングがあったものだ。この日に米仏が手打ちというシナリオは、ずっと前に描かれていたに違いない。

6月3日 ウィルスにご用心! そしてお詫び・・・

 ある日、突然PCが壊れた。画面が真っ黒になり、二度とデータが現れない。卒業式で大学のコンピューターセンターは機能していないし、誰に聞いたらよいものか。

 一番の問題は日本語が書けないことである。日記も書けない。原稿も書けない。メールも書けない。どうしよう。

 NY生活の長い友人にどうやって日本語の書けるPCを手に入れたのか聞いてみた。すると、思いがけない答が返ってきた。

「それ、ウィルスだよ。旦那もやられてさ。重要な文書を作っていてバックアップをとっていなかったから、真っ青になって、業者を探したのよ。それでデータを出してもらって。

大変だったよ。お金も高くついたと思う」

 なるほど。貴重な情報だが、彼が中国に出張中で、どこの業者でどうやって直したのかがわからないので、私はどうしたらいいのだろう。活字はともかく、私の場合は音のデータが保存できていないのだ。高くついてもいいからデータもとりだせるものなら取り出したい。それに、日本語をどうやって書くか。

「私のコンピュータは日本で買ってきたからねえ。アメリカのをどうやって日本語にするんのかなあ」

 ワシントン在住の日本人に聞いても、こんな調子なのである。メディアの支局は当然、業者を入れてメンテナンスを行っているし、故障すれば日本の本社から送ってもらうというわけだ。ウィルス被害など、誰も心当たりがない。

 日本語で書くことができないのは、実に不便である。急を要するため英語でメールを何通か書いたのだが、「ウィルスメールと思って危うく削除するところだった」と言われたり、

英語が解せないからローマ字で書いて送るよう言われたりで意思の疎通が難しい。結局、アパートから近いライシャワーセンターにお邪魔して、日本語を打たせていただいた。

こういう時に限って、急ぎの文書を求められるものだ。

 日本でPCに詳しく英語の解せる人々にメールを送り、ようやくXPなら日本語化が可能ということを知った。PCについては常に人を頼ってきた。こんなことまで知らなかったのだから、ほんとうに恥ずかしい。

 さて、次はいかに早く手に入れるかが問題だ。あと2ヶ月の滞在なのに、アメリカのPCを買うには抵抗があった。故障したときに、アメリカに持ってこないと保証書の意味がないからである。しかし、リースを探せば、ほとんどが企業相手だったり、ようやく個人リースに行き当たれば、クレジット履歴が必要とされ、円高にまかせて日本のクレジットカードを使ってきた私はあきらめるしかなかった。

 そこで手ごろな値段のものをネットで探してみると、ほとんどがWindows 98 なのである。だから安い。それだけのことだった。IBMなら国際保証も可能だし、少々高くても買ってみようと思えば、こちらは手に入れるのに1週間以上を要するのだ。国際保証のないDELLも同じだった。シッピング込みで1週間はかかるという。

 秋葉原で買って送ってもらうのはどうかと助言を受けた。しかし、平日に秋葉原に行く暇があり、PC に詳しく、20万円以上の借金をできる人というのは、そう簡単にはみつからない。日本のIBMをウェブで選び自分のカードで決済して郵送だけ任せるのも考えたのだが、日本国内で10日を要するというので挫折した。やはり店頭で直接買う以外にない。

 ワシントンの不便なのは、そうした直販店に行き着くのに車が必要なことだ。メトロを乗り継げるペンタゴンシティには品物がなく、タイソンズ・コーナーまであの手この手でたどり着き、「2時間前に売り切れです」といわれて疲れ果て、その近くに住む友人を呼び出してほかの店まで乗せてもらい、ようやく手に入れたときには1週間を経過していた。

早急にPCを買った理由はもうひとつあった。壊れたPCのデータを入れるのに、私の場合はICレコーダーで録音したものが多いため、ドライバーでは入りきらないといわれたからだ。

ようやく私の手元にPCがやってきて、日本語が書けるようになったのは、壊れてから9日が経ってからだ。思えば、B5のThink Padだけで1年を過ごそうとしたのにも無理がある。来て最初にデスクを1台買っておくべきだった。そして苦手なPCについて、人任せにしてきた怠慢のツケ。少しは自分でこなせるようにしようと深く反省した次第である。

というわけで、書き溜めた日記の更新もうまくできない上、過去のデータが消えて、しばしブランクがあきましたこと、お詫び申し上げます。そして、皆様もウィルスにはくれぐれもご用心くださいますように。ワシントンの知人の間でも同じ症状になった人が2人みつかっている。ウィルスソフトのアップデートは週に2日必要らしい。

5月13日 虐待と軍隊

 虐待写真のニュースが出てきてから、ずっと疑問だった。国軍のような戦略を持つべき組織がなぜ、このような証拠を残したのだろう。ラムズフェルドやウォルフォヴィッツを追い落とすためという見方をする人もいるが、それは写真が外に漏れてからのことのような気がする。イラクの現場で何が起きたのか。どういう心理のなせる業なのか。この疑問が解けなかった私は、思慮深いと思われる友人たちにメールを送った。答は後でまとめて掲載することにする。

今日はそのうちのひとつに言及したい。戦場では誰もが残虐になるものであり、日本軍も虐待死させた写真を格好の戦利品として持ち帰っていたという話だ。

 この返事をくれたのは、もう70代になる元新聞記者である。彼は亡くなった父とは同い年である。だが私は父から戦争の話を何も聞かされずに育った。むしろ女だてらにそういう難しい話に首を突っ込むな、というのが父の考えだった。だから東欧から帰国したばかりのころ、この大先輩との会話こそが私の知識の空白を埋め、政治意識を喚起するきっかけを作ってくれたのである。本来は、親子の間でこうした会話がなされ、戦争体験が語り継がれるべきだったのである。残念ながら、しかし、そうした会話は見事に封印されてきた。少なくとも都会では。

 さて、その大先輩からのメールの内容はこうである。彼が少年時代、近所の大工さんによくこういわれたという。

――ボン、ええもん見せたろか。

 「惨殺された捕虜の累々たる死体」だった。戦争帰りの大工は何枚もそれを持っていて、彼は得意気に少年だった彼に見せたがったという。そして、「自分も戦争に行ったら、こんなことをしなくてはいけないのか」と震え上がったそうだ。

 こうした経験がゆえに、イラクの米兵が、お土産としてあんな写真を欲しがる心理も

痛いほどわかるのだと書かれていた。そしてこう続く。

 「その後、初年兵は、まず中国に送られ、捕虜の中国兵を生きたまま銃剣で刺す訓練を

受ける、という噂が流れました。実際にあったらしいです。戦場で、弾丸の下を突撃するのも怖いけど、こちらの方が、僕を絶望的にしました」

 私は戦争に反対である。日本が国軍を持つことにも反対である。自衛隊のまま、いろいろな矛盾を抱えながら、日本のあり方を考えていくべきなのだと今でも思っている。

 アメリカにいると、多くの人々が「自衛隊を国軍にして、日本も普通の国になるべきだ」と発言する。永くいればいるほど、そう考えるらしい。たった9ヶ月の滞在でも、アメリカ目線を経験すると、そういう心理状態になるのはよくわかる。

 しかし、国軍を持つ国がいかに危険かを知ってしまった私としては、こういう考え方にとても抵抗がある。スハルト政権下のインドネシアやミャンマー(ビルマ)など、国軍が政治に関与して国民が不幸になった国はいくらでもある。日本も20世紀前半にその道をたどってきた。「暴力」を行使できる立場にある人間が権力のとりこになったとき何がおきるか。それは歴史を見れば明らかである。

 そして何よりも、戦場では虐待も正当化されることが危険なのである。戦争さえなければ心美しい人々も、集団心理と上官の命令の下に何でも行ってしまう。もしも私が母親だったら、息子を虐待するような人間にしたくない。それが平気な状況に置きたくない。

 これから先、日本では憲法改正論とともに、自衛隊のあり方について議論されることになろう。しかし、その前に一度日本の歴史を振り返る必要がある。当時のフィルムをとおして、戦争というものが、国軍というものが何かを考える必要がある。その上で、軍隊を持つことをみなが選択するのであれば、それは日本の運命である。だが、戦場の心理もわからないまま、自分たちの先輩たちがたどった道も知らないまま、ムードだけで自衛隊を国軍化することは、絶対にあってはならない。

 いろいろな国を歩きながら、私は常に日本のあり方を考えてきた。日本を愛する気持ちは誰にも負けないつもりだ。しかし、その愛国心が即、軍隊を持つことにつながる今の日本の空気はどこか違うように感じている。

娘や息子に虐待を強いるような国にしたくない ――。お母さんたちがこう発想できるようになったら、日本はすばらしい国になると考えるのは私だけだろうか。

5月6日 アフガンの医者

 同じプログラムにアフガニスタンから医者が参加していた。この彼が不思議な存在だった。ホームシックといえばいいのか、アメリカ嫌いといえばいいのか、ほとんど誰とも口を利かず、毎日アパートにこもったまま、自分のオブリゲーションが終わるとすぐに帰国してしまった。誰の目にも「不可解なアフガン人」と印象だけが残った。

オサマ・ビン・ラディンを見てもわかるように、アフガン人たちは男女を問わず美しく、実年齢よりも上に見える。彼も軽く30代半ばに見えていたのだが、実は29才だった。だったらいいとは思えないのだが、彼の行動は結果的に、すいぶん子供っぽかったのは事実だ。ルーマニアの同僚も、アメリカの仲間も、彼は医者だからエリートで大人のはずだと思ったらしい。職業柄、医者が成熟しているというのはまったくの幻想で、それは日本をみれば明らかである。50代以上のことはわからないが、40代以下だったら、まず医者は社会性がない。医学部に入る前に受験勉強に追われ、入ってからも実験につぐ実験である。そうした彼らが患者と向き合うために必要な人間性をどう養えばいいのか。患者の命をあずかる身である医者を人間として豊かにするにはどうしたらいいか。それを目指して日本では医学教育改革が行われたほど、日本では事態が深刻だった。

かの地ではホームステイの経験がないので詳しいことはわからないが、アフガニスタンのような部族社会では、長男だと、それだけでものすごく大切にされるのだと思う。何をやっても彼が一番という家族関係なのではないかと推察する。しかも医者であり、流暢な英語を操る彼は、かなり地位の高い家族の出のはずだ。救急病院で働きながら、彼はありとあらゆる分野を任されていたという。その分、自負も強い。

そんな彼がアメリカにやってきたら、ただの人になってしまった。彼が主役という流れにはならない。それも居心地が悪かったのだろう。とにかくアメリカ人が嫌いで、ストレスからか、救急病院に運ばれていた。

女子大生が肌を露にするのも耐えられなかったらしい。ジョージタウン大学の卒業生であるクリントンの肖像画を見て「彼は嫌いだ。悪い奴だ」とつぶやいていた。その理由は「モニカと変な関係になったからだ」という。

彼の人の評価は独特だ。一番のお気に入りは、ロシア人元外国官だった。リタイアしているくらいだから、もうそれなりのお年だが、彼は最初にアフガンの医者のところにやってきて、こう言ったという。「本当に申し訳ない。私の国がしたことを許してほしい」。以来、彼の中でそのロシア人はとてもいい人となった。

その彼がいよいよ帰国するというので、我が家で小さな食事会を開いた。帰国の1ヶ月前から急に元気で明るい人格に変わった彼は、アメリカ人抜きのその会で、初めて祖国について語った。私が知りたかったのは、彼がタリバンについてどう考えているかだった。

彼はオサマ・ビン・ラディンには2回会ったそうだ。といっても、じっくり話をしたわけではない。とてもカリスマ性があり、いい人という印象だったという。またタリバンから解放されたのはうれしかったが、北部同盟はタリバンよりも残忍で嫌いだ。北部同盟は何でも奪った。美しい妻がいれば奪い去り、すばらしい家があれば略奪した。少なくともタリバンは、略奪はしなかったのだそうだ。

――どうして彼はこの話をアメリカ人にしなかったのか。

実はこうした話は日本人ジャーナリストには知られていたが、ワシントンでは誰に話しても信じてもらえなかった。タリバンは悪者。アフガン人の自由を奪う野蛮人。そこから解放したアメリカは正しい。政府やメディアにこう刷り込まれた彼らの考えを否定するつもりはない。しかし、北部同盟はもっとひどかったという事実をも、アメリカの人々は理解すべきだ。タリバンを取り除けば終了ではなく、複眼的なまなざしを持ってアフガンの復興に取り組んでいれば、治安維持がいかに難しいか想像できたはずだ。

だが、当事者である彼が沈黙する限り、アメリカには何も伝わらない。せっかくのチャンスだったのに、実にもったいない話である。

4月27日 自己責任論と日本人異質論

 七七日の法要のため日本に滞在する間、メディアを支配したのは「自己責任論」だった。

 この一件はアメリカでも波紋を呼ぶこととなった。連日これだけ報道されれば記事にもなる。NYタイムスの、しかも一面で、人質に自己責任を押し付ける日本政府の「日本のお上意識」批判という切り口でコラムが書かれ、これが日本人異質論に巻き起こしたのである。

解放された瞬間、人質だった3人が「イラクにとどまりたい」と発言した。これを受けてコメントを求めた番記者に、小泉総理が「この場に及んで、そういうことを言うんですかね。どれだけの人が侵食を忘れて彼らのために働いたか」と口走った瞬間を、私は日本のテレビで見ていた。この後、次々と与野党の議員たちが「自己責任」を口にし始め、かかった経費を本人たちに請求すべきだとまで言い始めたため、メディアの中心的トピックとなったのである。こうなると、週末の番組では軒並み特集されるというお決まりのパターンで、中には親切にも誰が最初に口にしたかをVTRでさかのぼってくれた番組もあった。外務次官だった。

邦人保護は外務省の重要な仕事である。この段階で、外務次官が思わず「自己責任」と口にしたのは、適当な言葉遣いではなかったと私は思う。「大人としての自覚」とでも言えばよかったのだ。「自己責任」と言ってしまった段階で、外務省が邦人保護の義務を放棄しているようにもとられるし、再三、外務省が勧告を発しているのを無視して出かけていくとは何ごとか、という「上」からの目線が、NYタイムスの「お上意識」という記事につながっていったのである。

しかし、このとき、多くの国民が「お上意識」批判に傾かず、次官や小泉総理のコメントに頷いてしまったのは、3人が「地球の歩き方」の延長で戦地に出かけていく危うさを嗅ぎ取ったからだと私は考えるに至った。くわえて、彼らのきょうだいによる、人騒がせな「お子ちゃま」劇に、日本社会という世間が怒ったのである。

 だからといって、政府や国会議員が次々と「自己責任論」を口にし始めたのは、調子に乗りすぎたとしか言いようがない。日ごろの行いから判断するに「責任」という言葉をご存知だったのも意外だが、政治家としてはあまりに大人げない。外国人からみれば、国家をあげての国民いじめともとられる発言だ。イラクで起きることはすべて、国内問題では終わらないのである。人質救出にはアメリカにもずいぶん助けられたとの説もあるくらいだ。そういう事件について、国際社会という世論を意識できないのは、地元における自分の票のことしか考えてない国会議員の姿を露呈したといえる。

一方で、官邸や外務省が侵食忘れて心配したのは、自衛隊の撤退である。本音だろう。せっかくアメリカに気を遣って同盟国として一人前扱いされるところに来たのに、関係がこじれては大変だ。「お子ちゃま」ごときに日米同盟を揺るがされてはたまらない。拉致家族の問題でアメリカの協力が得られなければ、小泉政権の寿命にかかわるからだ。

実際、自衛隊派遣で日本はアメリカ政府から一定の信頼を勝ち取ったようだ。それを裏付けるかのように、数日前、ジョージタウン大学の学部生を対象にした外交シミュレーションゲームで、アメリカの大統領役を演じたオルブライト女史は、学生扮する日本の外交チームにこうコメントした。

「日本には今回の一件で、それはそれは感謝していますよ」

もちろん、イラクへの自衛隊派遣についてである。彼女はブッシュ大統領になりきって現政権の考えを代弁したのだ。

 ところが、日本政府がこれだけアメリカに恩を売ったにもかかわらず、当のアメリカでは国務長官パウエルが、この日本政府の「自己責任論」に疑問を呈したのはなんとも皮肉な話である。こういう時、誰でもヒーロー扱いしてしまうのも短絡的だが、これはアメリカの癖(へき)なのである。

NYタイムスの一面の記事を書いたのは日系の記者である。彼のいう「お上意識」だけでこの騒動は片付けられない。だが、アメリカではこれによって、日本人は不可解だということになってしまった。少なくともオルブライト女史はそう感じたようで、私は解釈を求められて困った。

後で拘束された2人のジャーナリストに比べて、3人はプロ意識もなく、情熱ばかりが先走っていたのは事実だ。自分たちの拘束がどれほどの騒動になるというシミュレーションができなかったことに未熟の匂いがつきまとう。しかし、外遊先では大使館職員に段取りを任せきりの国会議員はどうなのか。この記事がアメリカのメディアの一面を飾り不可解な日本人論を生み出すことを計算できず、国内世間の追い風を受けて「自己責任論」を振りかざした政治家の「先生方」も同様に、いい歳して「お子ちゃま」なのである。

4月23日 ワシントンで「豚足」に凝る

 DC にやってきてから、近くのスーパーに行くたび、ずっと気になっていたことがある。肉売り場にはいつも豚足のパックがおいてあることだ。だいたいは4本太いのがごろごろ、時には縦に引き裂かれた状態が8本、ビニールのパックに入っていて、2ドル49セントだったりするのである。

 沖縄の市場ならともかく、東京では、生の豚足にそう簡単にお目にかかれるものではない。沖縄料理ブームとはいえ、新宿などの沖縄食材専門店に乾き物はあるものの、豚足を売っている店に私は出くわしたことがないのである。

 アメリカ人はどうやって、これを料理するのだろうか。少なくともアメリカ料理の店には、豚足がメニューとして記載されているのを見たことがない。ましてや家庭でどうやって食するのだろう。このあたりはアジア人が多い地域ではない。

 いっそ自分で豚足を煮込んでみようじゃないか、と思いたったのは、昨秋だった。私にはクロックポットという強い味方があるのだから、あれで煮込めば大丈夫なはずだ。

この調理器具はおそらく日本でシチューポットという名前で売り出されていると思う。私が子供のころ、日本で突然はやって、我が家でも母がこれを使って、シチューやカレーを作っていたように記憶している。豆も煮ていたかもしれないが、当時の私は豆が嫌いだったので、あまり記憶に鮮明ではない。こちらにやってきてすぐ、近所の家庭用品店でみつけ、少々大きくて45ドルくらいしたが、すぐに飛びついて買ってしまった。日本では小型でも1万円くらいするのを知っていたからだ。

これが至極便利なのである。どんな肉もポットに突っ込んでおけば、コンピュータに向かっている間に柔らなくなる。あまりの安さに買ってしまった大量パックの砂肝までトロトロになるから驚きだ。この理屈でいけば、パンパンに張り詰めた豚足の肉も柔らかくなるはずである。そこで、勇気を出して買って調理してみることにした。

問題はレシピである。恥ずかしながら、料理好きを謳いながらも、私は豚足を煮込んだことがない。ネットで豚足を検索してみた。なんとも便利な時代だ。親切にもレシピが紹介されているではないか。

次の壁は中華調味料だった。生姜はともかく、八角と陳皮は、一体どこにあるのだろう。80年代初頭なら中華街でないと手に入らなかった中華の食材も、東京ならスーパーで簡単に購入できる時代になった。しかし、ここには醤油やラーメンは並んでいても、いわゆるアジアの食材コーナーはない。そういえば、ドライフラワーを使ったクリスマスのリースにあの星型の八角を使ったことを思い出したが、それなら花屋に行かねばならない。はて、どうしたものか。念のため、調味料コーナーの胡椒やハーブの瓶を片っ端からチェックしてみると、あった!マコーミックから CHINIESE FIVE SPICE と書かれたボトルが出ているではないか。Star Aniseとあるのだから、これが八角に違いない。これだ!早速これと生姜の粉末を加えて煮込むことにした。

ところが、醤油とともに味付けをしようという夜になって、我が家に砂糖がないことに気がついた。私はコーヒーにも砂糖は入れたことがない。煮込み料理も味醂で事足りるのである。その夜はあきらめ、翌日、大学のカフェにでむきコーヒーを買い、砂糖を5袋くらいいただいて帰ってきた。

 その結果、出来上がった豚足はといえば、適度に油がとれてまろやかな舌ざわりは悪くないのだが、糖分が足りないためコクに欠ける。やはりブラウンシュガーが足りなかったのだ。

以来、私は究極の「てびち(豚足の煮込み)」を定期的に作り、コラーゲンを摂取している日々である。とりわけ日本に帰った折、インスタントのソーキそばを見つけてからは、沖縄料理モードに入っている。台湾料理店のカウンターで食べる豚足も悪くないが、豚足はやはり「てびち」だろう。やはりソーキそばのかつおだしとのコンビネーションにはかなわない。

ペンタゴンの隣ワシントンのアパートで、アメリカ料理をさしおいて、あえて沖縄料理を食するのは、まことに気持ちのいいものである。

4月14日 日本人・人質事件2

 父の七七日の法要のために日本に帰る途中、飛行機の中で新聞を読んだ。やはり人質に風当たりが強いらしい。家族の家に嫌がらせのファックスや電話が届いていると言う。だが、ここまで大きくなびくのも珍しい。柳田さんの時はもう少し同情的だったように思うが。

夕方に成田に着いたので、夜遅く、友人と食事をした。父の仏壇に線香をあげに行くつもりだったが、姪が4月から私立の小学校に通い始め、朝が早いので金曜日の夜になったためだ。

―――ねえ、なぜ家族にこんなに風当たりが強いの?

「いやあ、弟とか妹とか出てきてさ、はっきり言えば、いい気になっていたわけ。自衛隊を撤退させろとか叫んだり、うーん、ちょっと英雄気取りなんだよな」

 どうやら世間の批判的なまなざしは、3人に対してではなく、弟や妹たちにあるらしい。

 飛行機に乗る前、NYに住む日本人の友だちからメールを受け取った。彼女は職場で日本の新聞を回し読みしている。

「日本の新聞を見ていると、一面から人質事件で持ちきりなのに、こちらでは、事件が発覚した翌日に記事が出ましたが、それ以降は、一切取り上げていません。日本という同盟国の位置づけの反映であるとも思えるし、それとも、毎日のように兵士を殺されているアメリカにとって、こんな事件は重みが無いのか、解釈に困っています」

―――うーん、日本の取り上げ方が過剰なのかもしれない・・・。

 会議などでテレビと隔離される彼女と違い、テレビをつけながらペーパーを書いていた私には、十分に取り上げられているように思えた。もちろん、日本のように第一報がテロップで入るというような一大事という扱いではないけれど。日本でもニュースになった頃、こちらはライスの公聴会を中継の最中だったし、テレビ局としては、ライスの件でゲストコメンテーターのブッキングをしていたはずだから、日本の人質事件は後回しなのは仕方がない。しかし、その前に韓国人牧師が数名拘束されていたことに比べれば、翌日からはよく取り上げているし、映像も流されている。

たしかに同盟国日本が特別扱いされているとは言いがたい。同盟国にも被害が及んでいるのに、どうするブッシュ政権?という口調ではある。中国なども被害にあっているので、その他大勢にされている、と言ってしまえばそれまでだ。協力してくれた国だから特別扱いするという意味では、韓国だってもっと騒がれるべきだった。しかし、ネットで見るまで私も知らなかったくらいの取り上げられ方である。

フィリピンで調査中の友達によれば、CNNでの第一報は、「日本人観光客が・・・」と言っていたらしい。「日本人といえば観光客程度という認識しかないのだろうね」と書いて来ていた。

 もっとも、アメリカ人が殺されてつるし上げられている写真が一面に載ったのに比べれば、同盟国の人質騒ぎは深刻度が全く違うのはやむをえないのではないか。

 日本だって、たとえば先に自衛隊の誰かが命を落とす事態が先に起きていたら、人質事件にこれだけの紙面は割かなかったかもしれない。おそらく、今回は拉致家族の人たちの経験則から、同じ温度で報道陣が動きだしたに違いない。これはメディアの癖(へき)としか言いようが無い。会見に応じた弟や妹たちも、拉致被害者の人たちのこれまでの報じられ方が頭の中で瞬時にシミュレーションされてしまったのではないか。だから、どんどん加速度ついて過熱気味になった。同時進行で追っていないけれど、なんとなくそんな予感がした。

4月13日 植草さん逮捕?

 ワシントンでは朝9時からフジテレビのニュースが放送される。それによると、エコノミストの植草さんが覗きで捕まったという。本当だろうか。

 電車の中で鏡を使って女子高生のスカートの中を見ていたそうな。それを神奈川県警にマークされていての現行犯逮捕?これだけテレビに出ているのだから自重できなかったのかなあ。

 竹中改革を真っ向から批判し、しかも冷静な語り口で話す彼は、説得力があるコメンテーターであるとして、結構、私のまわりにはファンが多かったのだ。そのファンの一人からのメールには、「木村剛さん、さぞお喜びでしょう」と書かれていた。

 野党がだらしない日本では、こういうコメンテーターは貴重なのだ。常に政策を批判できる人物がメディアの中に数人存在し続けなければいけない。なのに、こんなことで消えさってしまうのは、実にもったいない。

 先日、たしか「スーフリ」という名前だったと思うが、例のレイプ事件について台湾の留学生から根掘り葉掘り聞かれて困った。彼女は1年間、交換留学で日本にいたという。なぜ、早稲田のような立派な大学に通う男子学生がそんなことをするのか理解できないから説明してくれというのだ。

 同じ早稲田で今度は教授? またこの件について質問されたらどうしよう。外国にいるときに、こういうのが一番困る。総括して説明が求められるからだ。外国人からみれば、たしかに日本人、あるいは日本社会を全体化して考えたくなるのもわかるけれど・・・。

 しかし、もっとショックだったのは、38歳の男友達からのメールだった。

「酒の席では植草さんの話で持ちきりで、その中に彼の気持が分かるという奴がいてさ。彼が特別なんじゃなくて、やっぱ、いまの日本って本当にそういう男が多いんだろなあって思い知らされたよ」

尊敬できない大人ばかりの日本社会って、本当に不幸だとつくづく思う。

4月12日 イースターに韓国映画「2009」

 地下鉄のエスカレータは深くて長い。大江戸線に慣れた東京人にはさして驚くことでもないだろうが、十分に老体であるため停止していることは珍しくなく、下りはゆっくりの上に揺れがひどく、めまいがしそうである。上りは途中から屋外になるので、雨なら途中で傘を開かねばならない。それでも、空に向かっていく開放感は、トンネルを抜けるときに似て、心がはずむものである。

デュポン・サークル駅なら、南口より北口のエスカレータにさらなる趣がある。周囲に高いビルがないため、途中から高くて青い空が広がっている。夜なら星が瞬くのを眺めながら、秋には黄金色の大銀杏を見上げながら、物思いにひたる時間は十分にある。

一昨日も夜空を仰ぎながら考え事をしていると、反対側のエスカレータの男の子たちがいきなり大声で叫んだ。振り返れば、私に向かって手を振っているではないか。

その二人は、数日前に食事をともにしたロッキードに勤務する青年たちだった。彼らは田中角栄の名前すら聞いたことがないらしいが、私たちにすれば、ロッキードといえば日本の首相を追い込んだスキャンダルがまず浮かぶ。もっとも私が彼らに会ったのは、取材でもなんでもなく、アイリーンという香港出身の学部生が私を彼らの食事会に連れて行ったためである。

たった一度しか会ったことがないのに、この偶然。映画かドラマのワンシーンにありそうな、エスカレータ越しのすれ違い。こんなに長いエスカレータでは、恋人が反対側まで上ったり下ったりして追いかけるのは時間がかかるなあ、などとシナリオを描いているうち、彼らは深く深く地下に沈んでいったのだった。

実は、彼らに今夜も会うことになっていた。アイリーンのルームメイトたちがイースターで家族のもとに帰るので、オープンハウスディナーに呼ばれていたのである。本来は娘であってもおかしくない学部生やその先輩と「つるむ」のも不思議なものである。だが、彼女たちの目線で行動すると、たとえば日ごろは見逃しているドラマを見るチャンスに恵まれ、発見がある。今日は彼らが毎週チェックしているという「アリエス」という女性のCIAのダブルエージェントが主人公の物語だった。

その前に「2009」という韓国映画をDVDで見た。18時に人を呼んでおいて、それから料理を作りはじめるというのがアイリーンの段取りだったからである。韓国が国策として国家予算をつぎこみ映画制作の充実を図っていることは知られているが、「首里城」や「JSA」とは違った赴きがあり、どこかテレビゲームを思わせるつくりが稚拙のようでもあり、ダイナミックでもあった。日本からは仲村トオルが参加して好演していた。Back to the Future の韓国版とでもいおうか。しかし、もっとポリティカルで日本人には心がいたむ映画だ。伊藤博文が暗殺された時から100年ということでこのタイトルがついているらしいが、半島と日本帝国の関係がわかっていない日本の若い世代には、このシナリオに潜在的に刷り込まれた感情がちゃんと理解できないだろう。徹底的な半日教育を受けた韓国の若者と同じようには、21世紀まで朝鮮半島が日本に支配されているというレトリックの持つ意味が響かないだろう。

この映画が日本で公開されるときには、どうか日韓関係の近現代史をあわせて学んでほしいものだ。歴史の副教材と日本の高校の授業で扱ってほしいものだ。それには、教師にも歴史観がないとだめなのだけれど。

4月8日  日本人人質事件

今朝はライス女史の公聴会。早起きしてシャワーを浴び、テレビの前にかじりついていると、日本から電話が入った。

「イラクで日本人が3人、人質にとられたらしい。

古館の報道ステーションでやっているよ、いま」

―――そうか。久米さんのNステは終わったんだっけ。

「こんな時にイラクに行くなよな。カメラマンとか言ってるけど、

聞いたこと無い名前だし、こんな状態の国に一人でNGOやるなんて

こうなるくらいは予測できるだろうに」

―――第一報から、こんなに厳しいんだ。

 友人はメディアの中で仕事をしている。戦場カメラマンといえば、ある程度のキャリアのある人なら、その筋で存在が知られているものだ。だから、今回のカメラマンは未経験のまま戦場に飛び込んだと彼は判断したのだと思う。

そんな反応が気になって、夜中にネット検索をしてみた。2ちゃんねるなどでは厳しい書き込みがあった。とりわけ一番若い青年に対して、知り合いが書き込んだものと思われるものが、かなり厳しい論調だった。彼は日本に居場所がなくて放浪の末、イラクに出向いたのだとするものだった。

日本に居場所がなくて海外を放浪することを、私は悪いとは思わない。むしろ日本の若者は積極的に外に出て、自分の国を相対化すべきだというのが私の持論だ。しかし、戦時下のイラクの一人で出かけるのは、それなりの準備がいるだろう。情報収集とシミュレーションだ。こういう事態になることを想定して、その場合はどうしたらいいかを日本の誰かに申し送りしておく必要がある。プロと名乗る以上、そしてフリーランサーである以上、そのくらいの覚悟と準備は必要だ。

日本社会は、組織に属してなく、素性がはっきりしていない人に対しては風当たりが強い。組織人の保証人なしにはアパートひとつ借りられないのである。今回の3人も、普通に生活していて拉致された人とは違い、個人で勝手にでかけたのだから、と判断されがちだ。だからこそ、フリーの人間は、組織人の何十倍もの根回しが求められる。若い彼らには、それがわかっていたのだろうか。

邦人を守る義務がある外務省は、あの手この手で救出を試みるだろう。小泉総理は確信犯で自衛隊を送ったのだから、簡単に引き上げるわけが無い。私の勘ではタジキスタンの時と同じように、法外な金額を払い、救出するのではないかと思う。ネットの空気から判断するに、世論が彼らになびくとは思えない。敵は自衛隊撤退を要求しているらしいが、世論がそちらに傾かない以上、小泉政権は安泰とみた。

では、彼らの命は保障されるのか。これについてもかなりの確率で大丈夫だろう。イスラームの考えでは、人質も客人として扱うはずである。柳田大元氏がアフガニスタンで拘束されたときもTBS「いちばん!エクスプレス」でそうコメントした。3人が思い切り抵抗しない限り、危害は加えられないはずだ。こういうご時世でもイラクに行きたいと思う3人は、ムスリムへのシンバシーを無意識に伝えると思うからだ。大義なき戦争でイラクに行かされ、イラク人に対して愛情を持たない米軍兵士とは発している空気が全く違い、そこは日本人のいいところだと考えている。