12月○日  2つの幕引き

 母校の校舎が壊される前にお別れの儀式が行われるというので、行ってみることにした。

 私が卒業した都立新宿高校は、渋谷区から新宿区に移転した。といっても、もともとグランドのあった土地に新校舎が建てられたので、すぐ隣に引越しただけのことである。

 旧校舎の校門は、明治通りをはさんで新宿高島屋の向かい側にある。日通とHISの間を入っていった、その奥だ。5階建ての校舎は昔のまま。遅刻ぎりぎりに5階まで駆け上ったことが懐かしく思い出される。1年生を5階で過ごし、1年ごとに1フロアずつ下がることになっていた。

――こんなに小さかったかなあ。

上から校庭を見下ろし、友人と感慨にふけった。図書館も狭く感じる。身長は変わっていないのに、どうやら目線が違っていたらしい。何もかも小さく感じるのは、人生経験のなせる技か。

30年近くも昔の記憶なので、蘇るのに少し時間を要したが、こうして校舎に足を踏み入れると、1枚、1 枚、思い出がフレーム入りのフォトグラフとして浮かんでくる。コンクリートをこだましたエレキギターの音が聞こえてくる。目にごみが入ってコンタクトレンズを入れようとしたとき、指先のレンズを風がさらっていったことも懐かしい。

式典の司会はニッポン放送の上柳アナが担当した。衆議院議員の塩崎氏がやってきてスピーチをした。坂本龍一さんも先輩の一人だが、姿は現さなかった。当時よりずっと低く見える朝礼台で、入学式の時に校長が話したことは妙に鮮明に覚えている。

「新宿南口から校舎にたどりつくまでに、たくさんの連れ込み宿がありますので、お父さん、お母さんは心配かもしれませんが、こうしたものを若いうちから見ておくことは免疫ができて却っていいのです。(中略)本校の卒業生には、共産党の不破さんと、木枯らし門次郎でおなじみの中村敦夫さんがいます」

そんな旅館街も高島屋の建設に伴う再開発でずいぶんと姿を変えた。店や旅館が閉めてしまう前に聞き書きを試みればよかったと少し後悔している。いよいよ、この校舎も壊されるのだが、さて、次は何が建てられるのであろうか。

陽があたっているとはいえ、吹きすさぶ風の中、校庭で行われた式典に和服で出席するのは、足袋を着用した足が凍えてつらい。3時をまわったところで、私は歌舞伎座へと向かった。

中村勘九郎さん最後の舞台は人気で、チケットを確保するのに苦労した。待ちに待った結果、土壇場になって1階の真ん中の席が手に入った。なんという幸せ。かぶりつきで最後の勘九郎さんの表情が見られるのだ。演題は次の通り。

御存 鈴が森

阿国歌舞伎夢華

たぬき

今昔桃太郎

  「阿国歌舞伎夢華」の玉三郎さんは、やはり美しかった。最近は福助さんの女形がお気に入りの私。二人のような艶っぽさは、どうやったら身につくのか。かつて「ナイトジャーナル」にゲストとしてベジャール氏をスタジオにお招きした時、事前に彼の稽古の様子を見に行ったことがある。その際、素顔の玉三郎さんも見学されていて、そのしなやかな座り方に感動した。別のテーマで笑也さんにご登場いただいたときに訊ねたところ、そうした所作を身につけるには、日舞を学ぶしかないのだと言われたのを思い出す。

 「たぬき」の三津五郎さんは見事だった。襲名以来、演技に深みが出てきたと感じているのは私だけではないと思う。勘九郎さん最後の挨拶でも、一足先に八十助さん卒業を経験した先輩として、隣で見守っていた温かいまなざしが印象的だった。

「桃太郎」は勘九郎さんの親友、渡辺えりこさんが脚本を担当。途中、過去の舞いを見せた中の連獅子は千秋楽のみで披露されたらしい。七之助君との連獅子をワシントンで見た私としては、感慨ひとしおであった。

そして最後の舞台挨拶。真ん中のかぶりつきだから、表情をリアルに観察できる。もちろん、スタンディング・オーベーション。30分くらい続いたであろうか。鳴り止まぬ拍手の中、勘九郎さん本人が自ら幕引きを行ったのであった。

12月○日 ゴルカル党首選の結果

 インドネシアには「ムシャワラ」という言葉がある。徹底的に話し合い、皆が納得して決めるという慣習である。党大会を見ていると、これがムシャワラか、と納得してしまう。各地方の代表が、ああだこうだと意見を言い出し、なかなか先に進まない。なかには、取っ組み合いの喧嘩をする場面もある。よって党大会はスケジュールを大幅に狂わせて進行していく。

 地元メディアがもっとも注目したのは、党首選である。開票は深夜にもつれこんだ。候補が4人いたために、誰も過半数に届かず、2回戦に持ち越された。決着が着いたのは朝6時。みな、ぐったりしていた。

 予想通り、副大統領ユスフ・カラの勝利だ。インドネシア財界から9人の富豪を従えて乗り込めば、勝てないわけがない。前夜には相当額の実弾を撃ったと噂されている。大統領選で民主化が進んだように見えたインドネシアだが、相変わらずの金権政治にがっかりだ。その日の午後に発表された人事が発表されたが、プラボウォやスピア・パロなど、ユスフ・カラが自分の支持者として連れてきた9人の財界の大物たちが、一斉にアドバイザーに名前を連ねた。かつては大統領スハルトが占めたその地位を、彼らは金で買い占めたのである。

 しかも、彼らはこれまでの経緯から、対抗馬の現役党首アクバル・タンジュンに恨みを持つ人々なのだから始末に悪い。

「みんなリベンジなんだ。一番のワルはウィラントだ。アクバル支持を装って、何もせずに彼を敗北に追い込んだ」

 こう語る人々は、アクバルに同情的であるが、彼らは自分の会派の方針からユスフに票を投じたのである。

「いまにゴルカルは政府の道具にされてしまう。スハルトの時と同じさ。党員が怒って再び選挙に持ち込むか、われわれがゴルカルを去るか」

 結局は、インドネシア政治はコップの中の嵐のまま。金を使ってのリベンジ合戦。直接選挙で国民が決定権を握る方法以外に、インドネシア政界の悪しき慣習は払拭できないという現実を目の当たりにすることになってしまった。

12月○日 ゴルカル党大会2日目

 4月にワシントンで党首であるアクバル・タンジュンに会ったときは、あまりに老いたその姿に衝撃を受けたほどだ。しかし、アカウタビリティ・スピーチとビデオ通して彼の党首としての尽力を示されて、その理由が痛いほど理解できた。スハルト政権崩壊以降、彼は国会議長としてその運営に心砕いただけでなく、ゴルカルを政党として再生させるために、インドネシア全国を奔走したのだった。

 インドネシアでは共産党をつぶした歴史がある。同じ轍は踏むまい。独裁者が去ったからと言って、その集票マシーンであったゴルカルをつぶしてはならない。ゴルカルとは職能グループであるのだが、実質、与党としての役割も担ってきた。しかし、32年にわたるスハルト政権が倒れて数年、インドネシア社会全体が熱に浮かされたように反ゴルカルにまわった。その逆風の中、アクバルや幹部がこの党を支えるために踏ん張ったのだった。99年に6万人だった党員を40万人にまで増やした功績は評価されてしかるべきだろう。

 彼は大統領の器ではないけれど、実務派の政治家としては優秀だと感じ入った。99年、ワヒドではなくメガワティが大統領になり、アクバルが副大統領になっていれば、インドネシアの歴史は少し違ったかもしれない。

 さて、いよいよ明日は党首選挙の日。焦点は副大統領ユスフ・カラvs現職アクバル・タンジュンの闘いだ。

 もしもカラがゴルカル党首におさまれば、SBY(スシロ・バンバン・ユドヨノ)政権は安泰、と思いきや、これがどうやら違うらしい。恐ろしいことに、彼は大統領よりも権限を持ってしまうため、SBYが窮地に追い込まれることになる。すでに正副大統領の不協和音が聞こえてきているのに、カラが党首になれば思うツボ。2年後には財界をバックにつけてSBYは大統領の座から追い落とされるかもしれない。

 インドネシアのテレビ局はオーナーの意向で論調が決まる危うさの中にあり、彼らがSBYのネガティブキャンペーンをはれば、追い落としなど容易いことだ。カラには大衆をひきつける魅力がないので、5年後に国民の直接選挙で大統領に選ばれることは、ほぼ不可能。ならば、大統領をはずして自分がスライドする以外にチャンスはない。彼が米国副大統領チェイニーのように「副」でおさまることに我慢ができなければ、フィリピンの女性大統領アローヨのように、ちゃっかり副大統領から大統領に昇格することを狙う可能性は十分にある。

 それを阻止するためにもアクバルを党首にという人々と、カラという勝ち馬に乗ってインドネシア社会でのし上がろうとする人々の闘い。これがバリで起きていることだ。ウィラントは自分の票をアクバルに渡し辞退した。

12月○日 山吹色の魔力

 一体これは何だ。黄色のジャケットの山。目がちかちか。頭くらくら。バリ島にいるというのに、私を襲ったのは太陽光線ではない。

 眩しい海外線の誘惑に目を覆い、会議場ロビーに足を踏み入れた途端、ゴルカル党のシンボルカラーである黄色が私を直撃した。自民党大会やアメリカの民主党大会など、いろいろな国の党大会を見てきた私としては、おみやげとして、時計やボールペンなど、ノベルティが売られている光景には慣れっこだ。しかし、ジャケットの大量販売は初めての経験。メガワティ率いる闘争民主党の大会でも、赤のジャケットがこんなに下がっているのは見たことがない。

 材質は綿や化繊が主流。中には革ジャンも売られている。こんなに暑い国で革ジャンなんか誰が買うんかい。こんなチープなデザインでは、場末のキャバレーのステージ衣装と相場が決まっている。などと冷ややかに見すごして会場に入って、またびっくり。 100%、全員が黄色のジャケット着用なのである。きゃあ、もしかして黒は私一人? 冷房対策はピンクのカーデガンだし、所在ないのなんのって。まぁずい。品がないけど、私もあのジャケットを買う?5日間着れば元がとれるかなあ。

 しかし、最前列の来賓席の名前をチェックして、一瞬の迷いから開放された。椅子の上にタウフィック・キマスの名を発見・・・。ということは妻である前大統領のメガワティも来賓?たしかに隣の隣にはPDIP総裁と書かれたカードが置かれている。ここでゴルカル色を着た折には、メガワティの顰蹙を買ってしまう。あくまで、中立を通さなければならない。

 思いがけず、バリでメガワティと会うことができた。大統領選挙に敗れてから初めての対面だった。大統領の座を退いてストレスは減ったのだろう。彼女はとても感じよく、にこやかだった。大統領選挙ではゴルカル党のアクバル派がメガワティ支持にまわったのだから、党大会に出席するのは自然だが、しかし、敗れた身としては、辛い試練でもあったはずだ。

 時間は前後するが、早々と会場に着いた私は、党の幹部に呼び込まれて前から2列目に座る羽目になっていた。な、なんと、そこは党首候補たちのすぐ後ろ。しかも、そのお隣には、あのスハルトの娘婿プラボウォが座ってしまった。98年5月にジャカルタを混乱に陥れた張本人。しかし、この人もインフォーマントの一人にしたい私はついつい、こちらから挨拶してしまった。実に節操がない。

 それにしても、ゴルカル党の山吹色。宗教チックで不思議な魔力を持つ。これが党のシンボルカラーである限り、金権政治と決別できないのではないだろうか。弔事に喪服ばかり集うと、デザインで差別化を図りたくなるように、なるほど、同じ山吹色でも党員によっては工夫がなされている。部外者の私でさえ、皮ジャンも悪くないと思えてきた。冷房でからだが冷えてくれば、思わず買いたくなる。さりとて、こんな色のジャケットは東京に帰れば無用の長物。そういえば、我が家には山吹色の服があれもあった、これもあった、一着くらい持ってくれば良かったと、同じ色を着ながらにして、自分らしさを強調しようとする私がいる。会場にいると、山吹色に染まることに抵抗なくなっていく心理は、我ながら怖いと思った。

11月○日 はからずもターキー

 久々にワシントンにやってきてリサーチをしている。街路樹はすっかり黄金色に染まり、冬支度。家々はすでに庭先や玄関にクリスマスデコレーションを施し、電飾トナカイや電飾ツリーに彩られて夜は華やかなかぎりである。

 ある日本人女性に会うために、アムトラックでデラウェアに向かった。アメリカ人男性と結婚したその女性はもう、80歳になろうとしている。彼女に取材した内容は現段階では明らかにできないが、彼女は古きよき時代の日本を振り返ってこう嘆いた。

「戦争も経験したけど、その前も後も、日本は大らかで余裕がありましたよ。歌舞伎を観に行ったって、客層が違いましたもの。みな粋で、芸者さんも綺麗でね。その空間に自分が来た、というのが嬉しくてたまらなかった」

 もちろん、階級もはっきりしていた時代、彼女はアッパークラスに属していたからこそ出来たのである。そうしたクラス分けがいいとは思えないが、しかし、戦後の悪しき平等主義が日本文化の継承の妨げになったのもまた事実である。そして再び日本が貧富の差で二極化しようとする今、残念ながら新しいお金持ちは日本の文化を知らずに終わっていく。

 ステイ先をメリーランドからワシントンDCのジョージタウンに住む日本人留学生宅に移した。仕事で貯めたお金を投じ留学中のMさんは、木曜日に日本人仲間を家に招き、ターキーを焼くという。昨年はこの休みを利用して日本に戻ったので、私には初めてのサンクスギビング体験。昨夜から熱を出して寝込んでいたのだが、結局、一緒にターキーを焼くことになってしまった。

 アメリカのサンクスギビングは、かつての日本の正月に似て、独り者には所在無い。店は前日の午後から閉められ、都会に住む人々は家族が待つ故郷へと急ぐ。留学生は友人の家族の集いに入れてもらうか、お互いに集うしかないのである。

 大家さんのキッチンには備え付けのオーブンがあり、ターキーを焼く自体、そんなに苦労はなかったのだが、問題はグレービーソースである。Mさんはカリスマ主婦マーサのレシピを片手に悩んでいる。最初の壁は、ターキーの首と内臓を野菜と一緒に煮込んでしまっていいものかどうか。次の壁は、色である。われわれが日ごろイメージするグレービーソースよりも、赤く見えるのが玉に瑕。それに、たくさん出来上がったスープの一部に小麦粉を入れたところ、ダマが出来てしまったところで頭を抱えた。まずはインスタントのグレービーソースを作っておいて最悪の事態を避ける。そして、残りのスープを二等分し、水溶き片栗粉でごまかしたものと、正統派小麦粉でとろみをつけたものを作ったのだ。結果的に3種類ものソースが出来上がり、皆に食べ比べてもらうことにした。

 やってきたのは、省庁や企業から派遣された人々が中心。私はワシントンにいる間、日本の学生たちにほとんど会わずに終わってしまったが、はからずも、帰国後にご対面となった。さすがジョージタウン大学に来るだけのことはあって、皆、個性があって日本のことをよく考えている。一度でも日本を離れる経験を持つと、祖国を相対化する目が養われて、ものの見方に深みが出るものだ。憲法改正や自衛隊のあり方など、日本の将来について議論を重ね、お姉さま、ちょっとご満悦。必ずしも私とは意見が一致しないのだが、こうして酒の席でポリティカルな会話をしていくことが大切。彼らなりに深く考えていることがわかり、日本の将来は少し大丈夫、かな?と思わされた次第。でも、日本で組織に戻ると、この才能が埋没してしまうのだろうか。だとしたら残念。

 さて、ターキーの出来は上々。冷凍だったが、柔らかくてジューシーだった。おそらく朝には39度近く熱があったはずなのだが、調理場に立つと、ついつい仕切り屋の血が騒ぎ、ずっと肉きりおばさんをしてしまった。

 で、問題のソースだが、もっとも人気が高かったのは、な、なんと、水溶き片栗粉でとろみをつけたもの。きゃあ、マーサおばさんに教えてあげたい。でも、裁判でそれどころじゃなかったっけ。

11月○日 ブッシュ再選

 やっぱりブッシュだった。接戦の末ブッシュが勝つ――。今回は私の予想通りだった。

 ディベートで失態を演じなければ、ここまで接戦にならず、楽勝だっただろう。それほど、アメリカ人はブッシュが好きなのである。

 もちろん、ケリーがもっと魅力があれば、結果は違っていたかもしれない。92年のクリントンのような存在が登場すれば、ブッシュの勝利は微妙だった。ヒラリーでも違ったであろう。

 だとしても、民主党圧勝ということはあり得なかった。

 ワシントンに1年滞在しなければ、見えなかったアメリカの保守化傾向。ワシントンやNYなど大都市で「反ブッシュ」感情が勝っても、地方に行けば、食卓で「ブッシュ万歳」

と言うのだ、という話はアメリカにいる間によく耳にしていた。

 共和党について調べれば調べるほど、その支持者からアメリカ社会の保守化は垣間見えた。特に若者を中心としたモラル低下を嘆く中高年はこう考えるのである。

 「アメリカ社会がモラルを取り戻すにはキリスト教の力しかない」

 いわゆる「キリスト教原理主義者」だけでなく、まじめにこう考える人々は大勢いるのである。そういう人から見て、ブッシュが魅力的に映るのは、彼が真面目で信仰心が厚いからである。

 アル中から立ち直るのにキリスト教の力を借りたブッシュは、以来、お祈りを欠かさない。ホワイトハウスでも週に一度、ブッシュを中心に聖書の会が開かれる。彼は真剣に、キリスト教で全世界の人々が救えると考えているのである。この真面目さが根底にあるために、イラク戦争もややこしい。あまり考えたくないが、ハンティントンの『文明の衝突』がますます鮮明になるということである。

 おそらく日本でニュース映像を見ていると、ブッシュのモンチッチのような容姿と表情に子供っぽさを感じるに違いない。そして、一国の大統領としてはどこかドンくさい空気を嫌いだと感じている人も多いと思う。しかし、それが全米では重要なのだと思う。都会的でもなく、超エリートでもなく、けれどもキリスト教を真面目に信じるブッシュだからこそ、とても支持されるのである。実際、ブッシュ自身、学生時代から東部のエスタブリッシュメントの人々がアメリカ政治に支配的であることに対して強い抵抗感を持っていたという。そこがまた、地方の人々には共感を持たれるゆえんである。

 くわえて、そうしたキリスト教右派の人々を取り込むことを目論み、4年かけてそれを実行した選挙参謀カール・ローブの存在が大きいと考えるべきであろう。インドネシアでさえ、ユドヨノの背後に賢い選挙参謀がついただけで、メガワティは大敗したのだ 。選挙は人望や政策能力だけで勝つことは不可能である。アメリカの民主党はこの点でも失敗した。

 しかし、最後に敗北宣言をしたケリーは、やはりそれなりの人物だったと思う。夜中に登場して粘り宣言をした副大統領候補エドワーズには、親近感を覚えることができず、まだまだ青いと思わせるものがあった。それに比べて、ケリーは大人だった。

 ケリーが口にした「アメリカ分断」という表現。それを受けて、世界中の報道機関がアメリカ分断にこだわって大統領選挙を分析していたが、実は、これは全世界的な傾向のように思っている。そして日本もまた、分断されつつあることを私は強く感じている。

        注 ユドヨノの選挙参謀については、サンデー毎日10月30日号の拙稿参照。

『サンデー毎日』2004 年10月31日号 掲載

インドネシア新大統領を操る男:

        元軍人を「国民的アイドル」に仕立て上げるまでの近代的策略   

 インドネシア第六代大統領に元軍人のスシロ・バンバン・ユドヨノが選ばれ、この20日から新政権が発足する。

 国民が直接大統領を選ぶのはインドネシアでは初の試みだ。先月の決選投票では、現職の大統領メガワティに21%の大差をつけて圧勝。7月に行われた1回戦でもユドヨノは5候補の中でトップにつけていたが、過半数には届かず、2ヵ月後に決選投票の運びとなったのだ。

 スハルト政権の閣僚だったヨープ・アフェは投票前、私にこう語っていた。

「初代大統領スカルノのカリスマ性は宗主国オランダと闘ってこそ持ちえたものだ。ところが、ユドヨノは何もしていないのに人気がある。日本のコイズミが出てきた時と似ている。でも、この勢いでユドヨノが勝つとは限らない。メガワティの組織票が機能すれば勝負は互角だろう」

  相互扶助の精神が基礎にあるインドネシア社会では義理人情がものをいう。しがらみを振り切り自分の意思を反映させるのは至難の業だ。7月の選挙でも全候補からカネを握らされ、義理立てして5人を選んだら、その投票が無効になったという笑い話もあるくらいだ。

 世論調査でユドヨノ支持を表明しても、村長にそれまでの恩義を諭され、カネを手渡されれば、メガワティに投票した。それが1回戦で起きたことだった。結果、ユドヨノは34% メガワティは27%とわずか7%の差異だったのである。

 ところが、2回戦では21%の大差がついた。その理由はメガワティへの不信感や組織の怠慢だけでは説明がつかない。人々の投票行動にこれほどのインパクトを与えるには何か仕掛けがあるはずだ。

 それを考えたのが、広告代理店社長スビアクト・プリオスダルソノ、55歳である。売り上げを2年で 100倍に伸ばした実績の持ち主で、敏腕広告マンとして業界では広く知られた存在だ。

 ジャカルタ中部の雑然としたビルの谷間に聳え立ち、ひときわ異彩を放つガラス張りのオフィス。いかにも斬新で近代的なのに、中に入ると妙に懐かしく寛げる空間だ。映像編集室や音楽スタジオも備えた自社ビルは、「陰陽道」の曲線を取り入れて彼自身がデザインしたものだという。

「最初の仕事は、ほぼ無名のユドヨノを“国民的アイドル”にすることでした」

 なるほど、前任者のワヒドやメガワティは「反体制のシンボル」としてスハルトの独裁政権時代からすでにナショナル・ブランドとして名前が通っていた。だが、閣僚の一人にすぎなかったユドヨノは、庶民の間では無名といっても過言ではない。

「その後の決選投票では、メガワティの固定票以外の8割弱、これをすべて取り込むための戦略を練りました」

 細分化されたチャートをパワーポイントで紹介しつつ、彼はその内容を熱っぽく語ってくれた。理路整然としたプレゼンの仕方はインドネシアではめずらしい。

 だからといって、欧米でマーケッティングを学んだわけでも、米国大統領選挙を経験したわけでもない。長い髪を後ろに束ねたスビアクトは生粋のジャワ人で、敬虔なイスラーム教徒なのである。69年、18歳で自作の漫画を出版し、その後、パッケージデザインの勉強のため日本に1年留学した経験を持っている。

「インドネシア人は直接的表現を好みません。綿密にサブリミナル効果を計算し、12パターンの広告を作りました」

 大統領実現への「8つの戦略」 

 彼の戦略はおおまかに次の8つだった。

 第1に、メディアを味方につける。どの候補より先に記者会見を開き、ユドヨノの自宅には記者を頻繁に招待する。

 独裁政権が倒れて一番大きな変化はメディアの開花である。キー局だけでも新しく4つ開局した。その経営がスハルト一族のマネーロンダリングに使われている疑いはあるが、9割の人々が見るテレビの影響力は絶大だ。中でも美人アナをそろえるニュース専門局「メトロTV」は露骨なまでにユドヨノを応援した。

 第2に、親近感をもたせる。立候補以降、軍服は絶対に避け、常に笑顔を作らせる。黒の背広に白いシャツ、赤のネクタイ。ポスターも映像も、どの写真も服装を統一し、投票用紙のそれと同じにする。

 演説の間、人差し指を立てる手の動きはインドネシアの指導者にありがちだ。スビアクトはユドヨノにはそうした威圧的なしぐさを禁じ、必ず人々に手の甲を見せながら呼び込む形でこういう言わせた。

「ブルサマ・キタ・ビサ(一緒にできます)」

 具体的な約束はせず、可能性だけをほのめかすこのフレーズは、優しいメロディに載せてテレビ広告のキャッチとし、テレビ討論でも手の動きとともに繰り返させる。

 さらに、テレビCMでは子どもたちと手をつないで歌わせ、大統領にふさわしい人物として若者や妊婦にユドヨノの名前を連呼させ、浮動票をとりこむ。

 第3は、事実上の大統領として振舞う。靴音を響かせるために革靴を履かせ、人々に偉大な指導者と思わせる歩き方を教える。

 第4に、メガワティの時代が終わることを匂わせる。ユドヨノの広告には「新しい」と「変革」いう言葉を頻繁に用い、現職大統領と差別化を図った。おかげで、ひたすら大統領としての功績を称えただけのメガワティの広告は、古びた歴史的映像資料になってしまった。

 第5に、人口の88%を占めるイスラーム教徒をつかむ。目玉は「魔法の絨毯」だ。祈りの際に使われるこの絨毯は「神の加護、安全、繁栄」を象徴する。ユドヨノは赤。副大統領候補ユスフ・カラは白。二人の手元からインドネシアの紅白旗を思わせる二枚の絨毯がぐんぐん延びて、ある時は漁師、ある時は農民、ある時は市場の人々のところに差し出される。さらにエリアマーケティングも計算し、メガワティ支持者の多い東ジャワでは、イスラームの英雄を待望する伝統的なご当地ソングをBGMに流した。

 第6は、汚職撲滅と闘うユドヨノ像。スビアクトはユドヨノにイスラーム政党の中でも最も汚職を嫌う「幸福正義党」と組むことを薦め、その党首による推薦広告を流した。

 第7に、華人を取り込む。広告ではユドヨノとカーラが並んだ写真を金色の円で囲んだ。華人にとって金色は繁栄の象徴だ。ここでも背景には赤と白が波打つ。「陰陽道」の曲線で中国とインドネシアの融和をイメージさせた。

 最後の仕上げは、金権政治との決別のPRだ。

「(他陣営から)金を受け取ってもユドヨノに投票しよう」

 あらかじめ地方でこうしたメッセージを意図的に流しておく。そしてテレビの5秒CMで集中的に人々をアジる。

「行け! 勇気を持て! ユドヨノを勝たせよう!」

2回戦のキャンペーンは3日間。テレビ広告は1局20分という制限が加えられた中で、鮮烈な5秒CMは際立った。

 公式発表2週間前に“勝利宣言”

 さらにスビアクトはメガワティにとどめを刺すコメントも用意していた。

 9月20日の投票日、開票が始まって4時間後の16時、速票結果を送り続けたテレビ局が一斉にユドヨノ当確を報じた。それを受けて彼はその夜、自宅で事実上の 勝利宣言”を行った。公式発表は2週間も先だというのに、である。

「これは国民の勝利である。そしてメガワティにもお礼を言いたい。彼女がインドネシアに民主主義の礎を築いてくれたのだから」

 この瞬間、メガワティは終わった、と誰もが感じた。

 スハルト政権崩壊後、王道を歩いてきた政治家はすべて過去の遺物と化し、政界の世代交代が確定した。長く閉塞感の中にあった人々は、実際、新大統領ユドヨノが変革をもたらすと信じて希望に胸膨らませている。

 テロ対策に躍起になっているワシントンも元軍人で米国留学経験のあるユドヨノを歓迎している。これで外資が戻り経済復興できるのなら、再び「アセアンの盟主インドネシア」に返り咲けるかもしれない。

 しかし新大統領は、実は前任のメガワティに負けずおとらず慎重で決断が遅い。くわえて自身の政党は国会に議席を持たず、議会運営に苦労することが予想される。彼がポピュリズムに走るのは必至で、メディア戦略はますます重要になるだろう。

「ユドヨノを大統領にするためには、私自身が大統領として発想し、代弁できなければいけません」

 スビアクトは最後にこうつけ加えた。彼は政権発足後も大統領のアドバイザーとしてメディア戦略を練る予定で、米国大統領ブッシュにとっての政策顧問カール・ローブと似たような役割を担うことになる。

 これでインドネシアは一気にアメリカ的になるのか、独自のスタイルを築き上げるのか、やはりスハルトの負の遺産に縛られてしまうのか。少なくとも一人の広告マンの戦略が、インドネシアの民主化に加速度をつけたことは確かだ。(敬称略)

10月○日  ユドヨノ圧勝とスハルト回帰

 久しぶりに私の予想がはずれた。おかげで毎晩眠れない。

 本人の能力とは別に、メガワティが大統領になる日が来る――と考えていた私は、当時、多くの研究者から顰蹙を買った。だが、1998年2月、その日はやってきた。インドネシアの人々がそれを望んだからである。

 今回、しかし私は彼らの反応を見抜けなかった。ジャカルタで人と話した印象では、SBY支持者と反SBY(反軍人)が約半々で存在した。そして地方では、金権政治がまだ力を持つと予想した。だから、メガワティが負けるとしても僅差だと考えたのだ。

 しかし鍵を握っていたのは、実は地方の人々だった。

 地方では、スハルト回帰が始まっていたのだ。つまり、スハルト政権崩壊後、地方で何が起こっているかといえば、「プレマン」がはびこっているのである。彼らは、昼間は不動産屋で夜の顔はカジノを仕切るヤクザなのである。彼らが地方の人々を恐喝したり、マッチポンプ的立ち回りをして、地方の政治家を登場させるのに大きな役割を果たしたりするのである。

 このプレマンは、スハルト政権下では、軍によって抑えられていた。ところが、ハビビ政権ではハビビ派プレマンが、ワヒド政権下ではワヒド派のプレマンが、メガワティが大統領になると、闘争民主党派のプレマンが登場して、地方の農民などは辟易していたのである。スハルトの時代は良かった。彼らを止めるには軍の力が必要だ。だから、軍人の大統領がいいのだ、と考える人々が潜在的に存在していた。

 だったら、7月の大統領選挙でSBYが最初から圧勝しても良かったのだが、他にも元国軍司令官の候補が存在していたし、各候補者からお金が配られたことで迷いが出たのだ。相互扶助の精神が基礎にあるインドネシア社会では、頂いた以上報いないといけないと考える。スマトラに住むある人は、各候補からお金を受け取ったばかりに、投票用紙の候補全員にアナを開けて、その投票が無効になったそうだ。

 しかし、4月の総選挙、7月の大統領選挙、そして今回の決選投票は3回目である。そうなれば、彼らもいろいろと学習し、すでに義理は果たしたのだから、自分たちの選びたい候補を選ぼうということになったらしい。やはりプレマン対策には文民の女性大統領では駄目だ。軍人であったSBYにひと肌脱いでもらおうではないか。ここが私の計算間違いだった。

 ジャカルタでは、3回の選挙に飽きていた。99年には参加することで政治が変わると考えたのだが、結局、この5年間、言論の自由は得たものの、生活が向上したわけでもない。集会に行ったところで大差はない。新聞を読みテレビを見て判断しよう。誰が大統領でも変わらないのであれば、現職のメガワティではなく、新人のSBYにチャンスを与えてみようじゃないか。これが大半のSBY支持者の判断だった。

 メガワティが大統領の資質を十分に持ち合わせていたかどうかとは別に、彼女が大統領に就任して以降、911に始まり、世界中でテロの嵐が吹き荒れた。これは彼女にとって不運だった。88%のムスリムを抱えるインドネシアでは、フィリピンのアローヨのように、徹底したテロ対策を打ち出せなかった。アメリカの要望に応えて強攻策に出れば、国内のイスラーム勢力を敵に回すからである。

 事実上の勝利宣言をしたSBYはこうコメントした。

「民主化の基礎を築いてくれたメガワティに感謝する」と。

 このコメントを言わせたのは誰だろうか。決断が遅くて有名なSBYがそこまで計算できるとは思えない。彼の裏には、ものすごく賢い仕掛け人がいると私はにらんでいる。その存在を突き止めて、そのカラクリを知りたいと考えているのだが、いずれにせよ、インドネシアは大きくハンドルを切った。スハルトによる32年にわたる独裁政権に決別し、民主化と言う名前の下に試行錯誤を繰り返した日々が終わろうとしている。棄権をした人々を抜かせば、国民が自分の手で大統領を選んだのである。ユドヨノが大統領になるとすると、この先、スハルト的統治に戻るのか、欧米型社会になっていくのか。ハビビ、ワヒド、メガワティ。スハルトに印籠を渡したか、政権末期に反体制として闘ったかした3人の役割が終わり、インドネシアは新しい時代に突入した。

10月○日 ブッシュの失敗 

インドネシアの大統領選挙では、ユドヨノの圧勝がほぼ確定し、次なる焦点はアメリカの大統領選挙である。

 今日は第一回目のディベートだった。朝からCNNに合わせて中継を見たが、ブッシュがなんともブザマであった。決してケリーがいいわけではないのに、ブッシュがひどすぎて、かなり不利になると私は確信した。

 1年間アメリカに滞在して、この二人が話す場面をしばしば見てきたのだが、今日のブッシュはとりわけ出来が悪かった。彼の言葉がすべったり、カツゼツがいい加減で噛んでしまうのはよくあることだ。そうした拙さがお茶目に映るほど、ケリーの演説がつまらない。それが地元記者の評価であり、これまでの支持率に反映されてきたのだった。

しかし、今日はひどすぎる。こんなに幼稚な大統領にアメリカを任せて大丈夫かしらん、と誰もが思ったと私は感じた。あまりに国民をなめている。なんにも考えていない人、と見えてしまった。これでは愛嬌でカバーできる限界を超えている。

ブッシュを支持するのは、富裕層など古くからの共和党支持者にくわえて、メディアを通したイメージに左右されやすい人々なのである。少々舌ッ足らずでも、テレビで見て明るければ許してしまう。いかにも楽観的であれば嬉しくなってしまう人々である。

 その彼らでさえ、今日のブッシュを見て、アレ???と思ってしまったに違いない。あまりにお子チャマで、あまりに思慮深くないと映ったからである。

 一方のケリーは、ひたすら真面目だった。真面目すぎて何の魅力もなかったのだが、しかし、一生懸命お勉強してきた彼に好感を抱いてしまった私である。これでは「人生いろいろ」と発言した首相の不真面目さに嫌気がさして、生真面目な岡田党首率いる民主党に思わず投票してしまった日本国民と同じことがアメリカでも起きそうな気がしてきた。

 今回、ブッシュにとって不幸だったのは、テレビ画面が二分割されたことである。1ショットでも十分に危なっかしかったのに、ケリーと並んで映し出されたのだから、たまらない。狼狽して落ち着きのないブッシュと、終始落ち着き払って静かに対応したケリーとの対比が際立ってしまったのである。

 今回のブッシュの怠慢ぶりは、メガワティのそれと重なる。話すのが苦手なメガワティにしては、テレビ討論にも応じて、めずらしく検討したが、初日の準備不足から来る狼狽ぶりは現職大統領としてはお粗末だった。現職の大統領が初心を忘れて社会の空気を見誤ることはよくあることだが、選挙前の怠慢は命取りである。相手を倒すことだけを考える挑戦者の鮮度とエナジーを突き放すには、よほど心してベルトを締めなおさねばなるまい。

 決してブッシュがいいとは思わないが、ケリーになったからといってイラクもイスラエルも情勢は変わらない。一番の違いは、北朝鮮とは絶対に戦争をしないことだろう。日本にとっては市場開放を迫られて、財界が辛い思いをするだけだ。

 うーん、ディベートの季節到来。午前中は外出を辞めてCNNに釘付けである。

9月○日  投票日の明暗

 早朝、南ジャカルタにあるメガワティの家に向かおうとするタクシーの中で、突然電話が鳴った。

「サトコ、メガワティの投票は11時らしい。だから、先にSBYのところに向かったほうがいいよ。彼は8時に投票所に現れる」

軍人だからという理由で反SBYの人々が投票しないのであれば、やはりSBYの勝算は高いとみるべきであろう。勝ち馬に乗るつもりはないが、一応、その空気はつかんでおかねばならない。

 SBYはメディアの扱いが本当に上手だ。前日も家にジャーナリストを招待し、投票所では取材中の記者やカメラマンのためにスナックとミネラル・ウォーターが配られた。8時20分に現れるという噂どおり、彼はその時刻に現れ、カメラマンのリクエストに応えて、あちこちに人工的な笑みを振りまいた。軍人として滅多に笑うことがなかったであろう彼は、キャンペーンのために無理して笑って見せているように私には見えた。しかし、こうして愛想を振りまくことで、彼は株を上げるのである。権力者の成功の秘訣はまず、メディアを味方につけることだ。

 メディアが一斉に味方するこの空気に中で、メガワティに勝算はないと私は見た。しかし、せめて僅差で負けさせてあげたいというのが私の心情だった。

 私につきあってSBYの投票行動の一部始終を見ていたタクシードライバーは、それでも頑なにメガワティ支持だという。彼は単純にメガワティが好きなのだ。今でも、あの母のような笑顔に癒されるらしい。

 メガワティの投票所付近では、ジャーナリストだけでなく、近所の人々であふれていた。本来の家があるクバグサンからジャカルタ中部のメンテンに居を移したメガワティが、地元に帰ってきて公の場に姿を現すのは久しぶりだから、なんとか握手をしたいのである。メガワティの支持者とは、こういう人々なのである。

 投票の後、メガワティは(正確には夫のタウフィックだが)記者団を家に招いた。前日に記者を集めたSBYに比べ、こうした行動は遅きに過ぎるが、かつてメガワティが反体制のシンボルだったころ、ここに集まった記者たちが何人かやってきて、同窓会のような空気に包まれた。各地の選挙結果を電話で問い合わせ始めた。

 大統領になってからというもの、彼女はこういう場を設けなかった。はっきり言えば、これが敗因である。ブレーンを含めて、反体制のシンボルだったころの自分を支えた人々を大切にしなかったのだ。屋根が拡張され、天井にファンがとりつけられ、以前より大勢の人が日差しや雨をしのぎながら過ごせる環境になっていた。庭の奥に目を転じると、雑魚寝のできるスペースが設けられていた。大統領付きのガードマンを泊めるためらしい。これが、より多くの庶民を嵐から守るために設えられたのであったら、どんなに良かったであろう。メガワティ敗北の理由を象徴しているようで哀しかった。

 側近も記者も電話で全国の投票所に問い合わせを始めた。各地の得票率が入ってくるにつけ、夫のファウフィック・キマスの表情が暗くなっていった。組織票で取れると考えていた彼にとっての誤算が次々と明らかになり、ついにはタバコに手を出した。メガワティ本人は現役の大統領としてキャンペーンに集中できなかったのだから、夫である彼の読みの甘さや闘争民主党の怠慢に敗因があるのは確実である。とはいえ、負けつつある陣営の傍についているのは辛いものだ。

 私の携帯にも友人から電話が入った。

「テレビでは各局、SBYの勝利宣言よ。メガに勝ち目はないわ」

 5時すぎのことだ。わずか4時間、5%の開票で勝利宣言はこの国では早すぎる。

 しかもメトロTVが開票速報として流した数字と、選挙管理委員会が発表している数字に開きがあることだ。速報だと30%の開きがあるのに、公式の発表だと19%に縮まる。

この後、選挙対策本部のメガ・センターを訪れると、早すぎる勝利宣言と速報が問題視されていた。ここは、闘争民主党の人々だけでなく、全国からメガワティ支持者がボランティアで集まっているのだ。元軍人、学者、NGOなどいろいろである。とても誠実そうに見えるのだが、不器用そうで仕事の運びが効率的でない。SBY陣営のスタッフと比べると、時代遅れという空気がみなぎっている。

この2年ほどでテレビ番組の作りは洗練された。メトロTVなど、ほとんどが欧米の血が混じったハーフを女子アナ揃え、男性視聴者の獲得の成功している。それが選挙に大きく影響したことは間違いない。ジャカルタの街並みもピカピカに変わった。ショッピングセンターにはブランドショップが並び、お米好きのインドネシアになぜかその場で焼くパン屋いきなり3軒も出来て大流行、本屋には分厚くて高いインテリアの写真集が並んでいる。少なくともジャカルタでは、「洗練」はトレンドである。メガワティ陣営はそこを見誤った。

 宿に戻ってシャワーを浴びると、ベッドになだれ込んだ。私なりにメガワティの最期を看取る覚悟はあったのだが、友人ともども、なんだがとても疲れてしまった。