2003年4月4日

SARS①  成田発

SARS が流行っているというのに、イタリアに行ってきた。

3日の放送が終わった日、夜21時50分発のエアー・フランスでパリヘ向かい、ミラノに入ろうというものだ。

ここまで遅いと、他にフライトはほとんどない。成田空港の売店がシャッターを下ろしかけているところに滑り込み、マスクを購入。SARSも怖いのだが、飛行機は乾燥する。どこへ渡航するにも機内でマスクは必需品だが、万が一のために、余分に持っていくことにした。

用心深い私の考えでは、もしかしたら搭乗の際、マスクが配布されるのでは、と淡い期待を抱いたのだが、全くその気配はなし。それどころか、空港内でマスクをかけている人が一人もいないのである。この無防備が恐ろしい結果を生むのではないかと心配しつつも、搭乗ゲートに向かうと、もう一人だけ、日本人女性がマスクを着用していた。

機内が込んでいて驚いた。この便にはもともと欧州人が多い。くわえて観光客風の日本人もたくさんいて、ほぼ満席だ。この中でマスク着用者は二人だけということになると、感染者だと疑われそうで所在無い。こう発想してしまう私は、つくづく日本人だと思う。障害者に寛大な欧州やイスラーム社会とは違って、日本のような差別社会ではSARSにかかった人が名乗り出るのに勇気がいるだろう。らい病やエイズの時と同様、自分が社会から締め出されるに違いないと不安になるからだ。そんなことを考えつつ、朝5時から起きていた私は、飛び立つとすぐに深い眠りに落ちた。

エアフラの夜便は仕事が終わってから出発できるので便利だが、そこからの乗換えとなると、空港の指定された場所で時間をつぶすことになる。早朝の空港は気が抜けた炭酸水のようだ。くたびれた夜の終わりとやがて明ける朝をつなぐ2時間を、水底のようなカフェで過ごす。今回は機内で隣に座っていた日本人女性と会話をするうち、あっという間に時が流れた。

やがてセキュリティチェックを受けなおし、搭乗ゲートへと向かうと、空港はもう新しい顔に変わっている。早朝便で旅をしようとする人々で活気に満ち溢れている。ここは完全にEU。マスク着用者は一人もいない。

さすがの私もミラノの空港から市中へのマルペンサ・エクスプレスに乗った段階で、マスクをはずすことにした。イタリア滞在中、私の頭からSARSへの恐怖はすっかり消えていた。

2003年3月20日

開戦

ついに戦争が始まった。

それはきわめて奇妙な状況だった。今日は木曜日。私が「スーパーモーニング」に出演する日だ。当初、日本時間10時の開戦直後、ブッシュ大統領が演説をする予定であり、それを見込んで「スパモニ」は番組の枠を延長、特別番組の様相を呈することになっていた。演説に時間によっては、11時あるいは11時半までと、終了時間はワシントンの状況を見て番組中に決定することになっていた。

おそらく各局、特別番組の準備をして、それぞれキャスターが待機していたに違いない。戦争の始まりを見越して、それを待っているというのは異常である。軍事ジャーナリストの田岡さんによれば「戦争はすでに始まっている」にも関わらず、トマホークなり派手な攻撃をきっかけにブッシュが意味づけを行うという。メディアの性とはいえ、戦争を止めることもできず、ここまでアメリカに振り回されている現実を私たちは恥じなければいけない。

12年前、まだ30過ぎだった私は、友人と戦争が起きないことを祈念し、どこかでその可能性を信じていた。レギュラー番組を持たなかった私は、あの朝、友人からの電話で開戦を知って涙した。「どうして人間は愚かなことを繰り返すんだろう」。同じ言葉を12年後に再びつぶやくとは・・・。ジャーナリズムに身を置いて、国際政治を研究しても、私には何もできなかったのかと思うと、悔しくてならない。

そもそも9.11の直後、アフガニスタンを攻撃すると言い出した段階で、ブッシュ政権の内情を検証をすべきであったのだ。ワールドトレードセンターが崩れる映像を見た瞬間から、日本国民もアメリカ人のショックを共有してしまったらしい。外務省と日本政府はといえば、湾岸戦争のトラウマからアメリカ支持をすぐに表明した。今度こそアングロサクソン社会に評価されたいというのが彼らの本能だったらしい。

その日、日本にいなかった私は、9.11の悲劇をモスクワのイミグレで知った。旧ソ連時代よりも官僚的になったイミグレでさんざん待たされて不愉快な思いをしていた私は、後ろの男性3人組の一人が携帯を見ながら、英語でこう話すのを聞いて耳を疑った。「すごいニュース速報が入ってきたよ。WTCとペンタゴンがやられたらしい」。悪い冗談だと聞き流した。

しかし、ホテルに到着してみると、レセプションに設けられた大型のテレビにはWTCが崩れていく様が映し出されているではないか。ここでも散々待たされたあげく、私は混乱したまま部屋に入り、TBSモスクワ支局に電話した。そして何が起きたかを知ったのである。

私がロシアに渡ったのは、自分が主演したウズベキスタン映画が、キノショック映画祭に出品したからである。黒海沿岸のアナパという町で開かれるその映画祭の挨拶のために現地にしばし滞在。その間にロシア語のニュースしか聞けず国際世論から遠ざかっていた私は、日本に帰ってきて驚いた。飛行機の中と成田で眼を通した新聞によれば、みなが官邸詣でをして、アメリカへの全面支持を進言したと答えていたからだ。全世界がアメリカに同情して、すべてアメリカに都合よく進んでいる。

ウサマビンラディンが首謀者だという証拠はどこにもないのに、なぜ報復攻撃に誰も反対しないのか。もしもイスラーム過激派の仕業だとして、アメリカがなぜ標的になったのかという議論はどこにもないではないか。翌朝5時にはTBS「いちばん!エクスプレス」が控えている。この「アメリカだけが正しい」空気で覆われた日本のメディアで私はどこまで自分の意見を言えるだろう。

結局、翌朝は控えめにして、翌翌朝の番組から、イスラームへの誤解をなくすことに力を注ぎ始めた。過激派の異常さは否定しないが、一般のイスラーム教徒はアメリカ人が忌み嫌うような考えの持ち主でないこと、アメリカの中東政策に問題があること、アフガン攻撃は間違っていることを、数は少ないが同じ論調の新聞記事を使って解説していった。

おかげで「反米がすぎる」というお叱りの電話をもらった。

メールを通して友人にそれを伝えると、報復がなぜいけないのかという反論メールが返ってきて、友人を失ったこともある。アメリカが変質していくことに直感だけで言い知れぬ危うさを抱いた私は、論破できずに孤立していった。欧米社会だけを見てきた人々が何の疑問もなくアメリカ支持に走っていく中で、 通じ合えたのは、アジアや中東地域に精通した人々だけだったのである。

いま私が強く反省しているのは、あの段階でブッシュ政権の解析に手をつけなかったことである。いま言われているネオコン(新保守主義)が何をもくろんでいるのかは、当時から始まっていたのであり、私だけでなく、メディアもそこに目をつけるべきだった。東京には限界があったと思うが、ワシントン特派員ならできたのではないか。しかし、一端戦争が始まってしまうと、戦況を追うのに精一杯になるのがメディアの癖である。現場からの中継や戦況分析で、そのエネルギーのほとんどを費やしてしまった。

アフガン報復には反対しなかった連中も、今回は反戦を唱えている。今ごろ騒いでも遅いのだ。あの段階でアメリカの変容と真剣に向き合わなかったツケが、我々日本の姿勢に反映しているのである。ブッシュ政権との同盟のあり方について、昨年から議論を重ねていれば、我々がこんなに無力感にとらわれなかったに違いない。政治家やその取り巻きが愚かなのはどうすることもできないが、メディアと知識人には何かできたはずだ。

日本と韓国がワールドカップに沸いている間も、アメリカは着々とイラク攻撃の準備をしていたのである。

*ブッシュ政権については東京新聞のコラムに二回書いている。