そろそろウクライナについて

ロシアのウクライナ侵攻に日本の若者がここまで怒るとは、映像のインパクトと、SNS報道のなせる技というべきだろう。

武力を憎む気持ちは大切だ。戦争からは何も生み出さない。馬鹿げている。それを訴えたくて、私は『ワシントンハイツ』を上梓した。大国の思惑を知ってほしいと思ったからだ。

犠牲になるのは、常に一般の市民である。命を落とした方々、避難を余儀なくされている方々に、心よりお見舞い申し上げる。

しかしながら、報道を鵜呑みにするのが危険なのも事実だ。

たとえば、特派員が事実を伝えたくても、日本の空気を見ながら東京のデスクに歪められることもある。彼らがそれを嘆くのを何度も聞いた。意図的にフェイクニュースが流されるのは最近に限ったことではない。技術が発達したいま、加工は難しいことではない。何が本当で何が嘘か、メディアが真実を見せているとは限りない。流れてくる写真や映像が現在進行系なのか、捏造されていないか、疑ってみる価値はある。

時には上空からウクライナ情勢を見てみよう。プーチンさえコマのひとつにすぎず、操っている輩がいるかもしれない。時には、中世の歴史に目を転じてみよう。この争いの深層にあるものは中世から続く対立の構図かもしれない。そのよじれ方は、日本人のコメンテータがテレビで語れるほど簡単なもどではないはずだ。

私自身は、1990年、ベルリンの壁崩壊直後の東欧ソ連をホームステイして歩き、人々の声を集めてきた。ひょんなことから、ウズベキスタン映画にも出た。ウクライナに特に執着はないが、普通の日本人より、彼らの歴史を見聞きしてきたつもりだ。だから現地を知らない日本の視聴者より少しだけ土地勘はある。だから、嘘も見破る力が備わっているほうだ。

強調したいのは、昨日までの日常が未来永劫に続くわけではないという時代がやってきたことだ。だから、あらゆる想定しておくことをオススメする。「ありえないという思考停止」が日本人を駄目にする、と私は常々訴えてきた。いま起きていることを冷静に受け止め、自分が当事者だったらどうするか、常にシミュレーションしてみることだ。

万が一、我が身に降りかかってきたときに慌てないために。