鯖を喰らう女

コロナ禍で、ランチのみ外食を続けている。お昼にガッツリ魚や鶏肉を食べ、夜は家であっさり。知り合いのお店もお酒を出せないので、ランチのみの営業が増えたからだ。

もう一つの理由は、飲食店の火力にある。鯖を焼くのも、チキンを焼くのも、家のキッチンでは時間がかかる上、家中に匂いが蔓延してしまう。だから、焼き物は外で食べる。これは以前から続けてきたことだ。

ふと気づくと、週に一度は焼鯖定食。おかげで、「いつもありがとうございます」というセリフが飛び出す。こちらはコロナ禍まで訪れたことがなかった。三条通りのまんざら亭だ。脂ののった鯖が半身、ものすごい火力で焼かれて目の前に出される。突き出しが色々着いてくるのも嬉しい。ひじきを煮るのもごぼうを炊くのも簡単だが、一人だと食べきれない。冬ならまだしも、夏は日持ちがしない。ゆえに、こうして数種食べられるのがありがたいのだ。

一人で訪れるのでいつもカウンターにしていたが、今日は窓際のボックス席に座らせてもらった。窓からは京都文化博物館別館が見える。明治時代、辰野金吾が設計したレンガ造りが青空に映えて美しい。早起きして拝んだ東山のご来光が、この青空を予言していた。

 

坂東三津五郎丈「楷書の芸」

昨夜テレビをつけたら、NHKの伝統芸能番組に坂東三津五郎丈が取り上げられていた。この番組、高橋英樹さんが司会になってから、面白くなった。ご自分も時代劇、随分演じられているからだ。

スタジオでは「楷書の芸」と評していた。ぴったりの表現だと思う。稽古に稽古を重ねて、技術に裏打ちされた完璧な芸。型がちゃんとしているから、崩すのはそこから。家元として日舞を舞う時の彼は、指の先まで神経が行き渡り、完璧だった。

実は俳句でのご縁。年に5回くらいの句会だったが、皆で金毘羅歌舞伎を見に行ったり、由布院に行ったり、大人の修学旅行、刺激をいっぱい受けて、楽しませていただいた。それがご縁で歌舞伎の舞台、よく拝見したのだが、結果、中村勘三郎丈の芸も目の当たりにすることとなり、私が日本の伝統文化をするための登竜門的時代だったとも思う。

歌舞伎の中堅どころが続けてこの世を去ったことは日本全体に大きな打撃と思うのだが、これは歌舞伎座を新しくしたことと関係あるとするのが、京都の人々の目線。これについては改めて。

 

 

白の上布に教えられたこと

この着物が私のもとにやってきて、2つのことを教わりました。

祖母の形見、白の越後上布。15年前、叔母たちと祖母の家で遺品の整理をしたとき、箪笥の中に眠っていたものです。彼女たちは大島紬や訪問日などを選び、夏の薄物には興味を示さなかったので、私が形見として持ち帰ったうちの一枚です。宮古上布と並んで越後上布は高価だと聞かされました。そうとは知らず、私はこの着物を手に入れて、とても嬉しかった。祖母がこの着物を纏っている姿は記憶にないのですが、私の知らない祖母に会える気がしたのでしょう。

最初は、祖母の夏帯をあわせて着ていました。深い翡翠色の帯。日焼けして色あせしていたので裏返してかがってもらい、締めていたのです。上布の着物は果たしていつの時代のものか。祖母の着物は時として縫い糸が弱ってほつけてしまいます。縫い直すなら一度洗い張りに、と呉服屋さんに預けたところ「雪晒し」にしてくれたので、真っ白になって返ってきました。見違えるように真っ白に。それまでは、薄いグレーのような印象だったのに。

「雪晒し」とは、雪の上に布を晒してきれいにする手法。後に現場を見に新潟までお連れいただき、眩しいほどの一面の雪原に反物を次々広げていく光景を目の当たりにしました。薬品を使うわけではありません。自然に任せるだけで、あそこまで白くなるとは――。オゾンの力、おそるべし。先人の知恵に感動しました。

白すぎたら白すぎたで、自分の顔が赤黒く見えてしまうと悩みながらも、盛夏には上布を纏っていた私。ほぼ毎年訪れていた京都の祇園祭の宵山で、上布を涼しげに纏う女将さんたちを見て憧れていたからです。

ところが、その白い上布で歌舞伎座を訪れたときのこと。帰る夜道、寒いと感じたのです。8月20日くらい、第三部を観終えた後、日比谷線で六本木駅で下車した21時過ぎのことでした。若手の納涼歌舞伎が開かれ、中村勘三郎丈と坂東三津五郎丈が頑張っていたころです。日中の陽射しに従い、白の上布を選んだのに、夜風は微妙に秋の気配。麻のサラサラ感が寒いのです。私のからだにまとわりついているはずの上布が妙によそよそしく、かすかなる冷気が私のからだを直撃するのです。おそらく洋服を着ていたら、気づかなかったでしょう。ビルが乱立する東京にいても、上布を纏えば季節を感じることができる。これは驚きでした。

日中の陽射しは真夏でも、夜になると忍び寄る秋の気配。歌舞伎座の帰り道に秋を感じて以来、8月末、夜まで過ごすときには絹、すなわち絽の着物を選ぶようにしています。

絹のきものが温かい話は、また別の日に。

 

本をダブルで買ってしまう女

まったくもって恥ずかしい話だが、同じ本を2冊買ってしまうことがある。以前は本屋で一冊買って、また別の日に買ってしまうということ。その点、アマゾンは以前にも購入したと教えてくれ有り難いのだが、しかし、新刊本の冊数を2にクリックしていたり、古本を2冊候補にしたままカートに入れて、会計に行ってしまったりするパタンだ。

今回も京都の精進料理という昭和52年刊行の古本で、それをしてしまった。誰か興味のある人に譲るしかない。アホです。

 

蟻とキリギリス

 米誌タイムの「世界で最も影響力のある100人」に選ばれた隈研吾さん、おめでとうございます。
 3ヶ月も前の話で恐縮だが、6月は東京に1週間滞在。
 ミッションのひとつは、建築家の隈研吾さんに富家宏泰氏(京都の戦後を作った建築家)を知ってもらうこと。五輪の後、ワクチン打って再び海外行脚に入る前、彼をつかまえるなら、いましかない。ランチの前日、まずは内覧会へ。
 かねて東京五輪は開催されないと予測していた私は(理由は地震か富士山噴火、パンデミックとは考えなかった)、スタジアムを設計した隈さんに妙な後ろめたさがあって、ここ数年の活躍を追っていなかったのだが(あ、東大の最終講義、原先生の回だけ聴いた。上野千鶴子の回はパス)、内覧会を見て、うちのめされた。
 見せ方が上手なのもある。だが、その作品群に圧倒されるのだ。いま放送中の朝ドラに出てくる能舞台は彼の90年代の作品。根津美術館竣工のころは時間的に余裕があった。おそらく歌舞伎座を手掛けたころから、「フライング・アーキテクト」は世界中を飛び回り、日本にいても分刻みの日々になる。その結果がコレ。
 先日、FRaUウェブの連載コラムの挿絵を描いてくれている漫画家・東村アキコさんが「スッキリ」に出たときも、彼女が30代、子どもを抱えて馬車馬のように働いていた話が出てきた。「同時連載何本も抱えてきたころに比べて、いまは隠居?っていう感じ」と語ったアッコちゃん。ドラマ化されるほどのヒット作いっぱいの陰には、そうした働きっぷりがあるのだ。
 結局、アキオサトコは、キリギリスだったね――。このところ、私の頭の中をこんな言葉が木霊している。
 ま、脳動脈の石灰化がみつかったとき、医師に「50代でこんなひどいのは見たことない」、霊能者に「還暦まで生きられない」と同じ日に脅されて慄いたのもある。だから無理しない優雅な暮らしを選んだ結果、延命できたかもしれない。が、ここで蟻さんにならないと、ただのオバハンで終わってしまうよ。このところ、そんな恐怖心に覆われている私。
 そういえば、東京では「働き方改革」と声高に叫んで、土日働かせない出版社も増えていて仕事しづらいのだが、皆でキリギリスになってしまって、大丈夫かな、日本。
追伸)2枚めの写真は隈さん考案の木製トレーラーハウス。

祖母の家

京町家に憧れがあります。郷愁というほうが正しいかもしれません。名古屋の祖母の家を思い出すからです。洛中の町家のように苔むした坪庭があるわけでもないけれど、それでも、夏座敷に涼しげな室礼が幼いころから好きでした。寝そべったときの、いや素足で歩くだけでも、籐の網代のひんやりとした肌ざわりが、私に「和の夏」を教えてくれていました。

まずは神棚にお水を、仏壇には御仏供さんを供え、私が生まれる直前に旅立った祖父のために、祖母が木魚を叩きながら読経するのを横で聴いていたことも、東京で社宅暮らしをしていた私にとっては、貴重な体験でした。

麦茶をやかんに入れて沸かすときの香ばしい匂い。冷やすのが目的でやかんに占拠された洗面台は、ペットボトルなどなかった時代の光景です。廊下には、赤だか水色だかの、折りたたみ式のボンボンドリームベッドが置かれていて、時折、庭に出してその上に寝ていた覚えがあります。高度成長期、庶民のモダニズムの象徴というのは大げさでしょうか。あの当時、祖母にとっては自慢の品だった気配があります。

流行っていたとはいえ、幼い私でも、ボンボンドリームベッドのビニールはベタっとする、と知っていた気がします。寝そべるなら、籐の網代の上が気持ちいいと、子どもなりに感じ取っていたのではないでしょうか。

祖母の家は叔父の代襲相続で従弟のものとなり、あっさり人手に渡ってしまったのですが、誰も興味を示さなかった、あの網代の敷物はもらってきたらよかったなあ、といまごろ悔やまれます。祖母の上布の着物や夏帯は手元に残ったのですが。

祖母の家で過ごした経験も、私の京都暮らし願望へとつながっているのです。

重陽神事

9月9日のこと。

上賀茂神社の重陽神事に参列。本殿の前に進むだけで祓われる気がします。実にありがたい。

いつもなら、圧倒的な静寂の中、大木に宿る鳥の囀りが心地よく耳に届き、やがて空高く飛ぶ烏の啼き声に神々の気配を感じとる日でもあります。そのたびに八咫烏伝説を思い出すのですが、今年は烏相撲が中止になったせいでしょうか。烏が上空を訪れず、ツクツクボウシが数匹、力強く夏のフィナーレを訴えようとしていました。

実はこの日、30度。洛北であるにも関わらず、早朝から強い日差し。菊文の生紬をまとった私の背中にじとっと汗が滲みます。直会は菊酒。金の酒次から土器にも菊の花びらがこぼれます。神気をおびたお酒と菊花を口に含むと、延寿が約束された気持ちになり、洛中へと急いだのでした。

金縛りシート

東京の知人と電話で話す。東京はコンサートホールによっては密が生じているらしい。オーチャードは厳しいが、サントリーホールは入口に体温測定器すらなかったという。いや、京都も1800人もの観客を入れたと友人がFBに書き込んでいた。

コンサートの間、話はしなくとも、隣の席の息遣いは聞こえてくる。もしも突然、咳をされたらどうしよう。彼がマスクをしているからといって、ウィルスはその合間を縫って、私のところに到達するかもしれない。大柄の人だったりしたら、私との距離は本当に短くなる。

まだコンサートに行く勇気もないくせに、あれこれ妄想してしまう。地下鉄なら席を立てるが、ホールでは休憩まで金縛り状態。マスクの上から口を覆えるハンカチを用意しようか。最初からマスクを二重にしていくか。

新幹線は座席が選択できて、本当にありがたい。予約者10人未満の車両を選ぶことにしている。

911から20年

アメリカ東部時間で、8時46分でした。

20年前のあの悲劇を、私はモスクワのイミグレで知りました。ロシア語に紛れて、男性がペンタゴンとWTCが飛行機によって突撃されたとの英語が耳に届き、悪い冗談を言う人がいるものだとホテルに向かったのです。レセプションで、あの映像を見て目を疑い、コレが現実なのかと混乱したのを覚えています。私は翌日、黒海沿岸のアナパへ。自分が主演したウズベキスタン映画が出品しているキノショック映画祭に出るためでした。片田舎の宿のテレビは、あの映像を繰り返し流すだけ。ネットもつなげず、私はアメリカによる情報の外にいました。

帰りの飛行機の中で、日本の新聞を広げ、ムスリムを悪者に仕立てるアメリカ寄りの報道に抵抗を覚えます。インドネシア研究をしていた私、イスラーム社会を少なからず理解していたからです。帰国すれば、TBSの早朝番組「いちばん!エクスプレス」でコメントせねばなりません。出番までの半日、私は食い入るように日本のテレビを見て、自分の発言が極端にずれない範囲で、イスラームそのものは悪い宗教ではない。一部の原理主義者とはちがうというニュアンスを加えました。

が、視聴者からは、私がアメリカに厳しすぎるという批判の声も送られてきました。日本はアメリカの論調をそのまま伝えていたから、イスラーム擁護は許せないわけです。あのときにアメリカにいてレポートする立場ならば、私もイスラーム批判に走ったかもしれません。でも、埒外だったから、バランスをとろうとしたのです。いまだったら、ネットで炎上していたかもしれません。

その後、アメリカのアフガン侵攻――。人々に自由だの民主化だのを中途半端に植え付けて、20年経ったら撤退するなどということを、私たちはどうやって受け止めたらいいのでしょう。もちろん、米兵の命をこれ以上、犠牲にできないアメリカの事情もわかります。これについては、オバマ元大統領の責任も大きいと感じていますが・・・。

今年の911は、タリバンの復権と併せて、いつもにもまして悶々とした息苦しい日となりました。