銃撃事件のこと

8月に入ったので、少し。

ケネディ暗殺事件を思い出してください。オズワルドのこと、どんなに探っても、いまだに真相に辿り着けませんね。

今回、安倍総理を銃撃した男性について、どんなに掘っても、真相は闇の中。彼は、この任を全うするために育てられたに過ぎないというのが私の見解。背後には、世界的に大きな存在があると見ています。奈良県警の失態などではありません。

祇園祭を終えて

今年も、やはり腑抜け状態。寂しいですね。
3年ぶりに山鉾が巡航し、お神輿が四条大橋を渡った今年の祇園祭。意見の違いもある中、知恵を絞って、どうにか無事に斎行してくださった関係者の皆様に感謝。
家々の軒下に掲げられた新しい粽を見るにつけ、京都は大丈夫と感じます。私的には、今年の無言詣りは夜ではなく朝、18日から24日までの7回、手を合わせました。来夏までの1年、「蘇民将来」の子孫はお守りいただけると信じて。まずは、猛暑を乗り切りましょう。

安倍総理のご冥福をお祈りします

安倍元総理、
撃たれたの?
ここは日本!
しかも奈良で?

安倍元総理の御冥福をお祈りします。皆さまのコメントへのレスは、気持ちが落ち着いてから。私なりの分析もありますが、そちらももう少し時間を置いてからにします。

と7月8日、フェイスブックに書いたら、個人的に電話してくる人が大勢いて、皆もやもやしているのよね。

オフレコ時事問題、という講座開こうかな。

 

 

 

テロが普通に起きる時代に突入かも

(当時書いたことを、時差で公開します)
訃報にふれて、涙が出てきた。不安になった。病でも災害でもなく、戦争やテロで命を落とすということに、やはり私の心はヤワだった。
本来、遊説先は長野だったが急遽、奈良に変更したのだとか。もしも奈良を選ばなければ無事だったのか、長野にもスナイパーは用意されていたのか。
水面下で、元自衛官の中からスナイパーが育てられている可能性は十分にある。一般市民の知らないところでゴルゴ13のような世界が展開していると覚悟すべき時期がきた。当然のことながら、今回の警備の甘さは責めを負うだろう。が、彼らのミスではない気がしている。
グローバル化したいま、この事件は国際政治とリンクしていると考えるべきで、日本もテロの舞台になりうるということは肝に銘じよう。3度めを狙っていた安倍元総理。その野心が仇になったのかもしれない。ご冥福をお祈りします。
合掌

【祇園祭】 長刀鉾吉符入 稚児舞披露 

5日は #長刀鉾 吉符入の日。町会所2階で、#お稚児さん#太平の舞 を初披露。17日の山鉾巡行当日は、#長刀鉾の上で、身を乗り出して、疫病退散の太平の舞を舞うのです。背後で稚児係がバックアップしてくれていますが、実はとても怖いはず。本番前に高いところで舞うのは、このあと13日の曳き初めのみ。お位を頂いたあとなので、化粧も装束もは別のものになります。
この日は午後から(京都の)上京で用事があり、出遅れ。正面の場所取りができず。ちょっと斜めからですが、お許しを。

 

【祇園祭】お千度の儀

スマホ写真をインスタにあげて、こちらには一眼レフのものをと最初は考えていたのですが、仕事の宿題が山積みで、断念しました。時間が経った上、インスタと同じ写真で失礼します。
7月1日、お千度の儀。祇園祭始まりの朝。長刀鉾のお稚児さん、お父様お爺様に白布越しに手を引かれ、本殿を拝礼しながらまわるのです。この朝がデビューですから、顔はこわばり下をむいてしまう初々しさ。この4日後、既に皆さんがアップされている「太平の舞」披露では、表情が変わっていますね。17日の巡行当日には実にいい顔になるので、約半月の成長ぶりを追うのも、祇園祭の醍醐味のひとつ。
背後から傘を指している人が強力(ごうりき)さん。お稚児さんが13日にお位を頂いて神さまのお使いになった後は、地面に足をつけません。彼の肩に乗るか、馬にまたがるかです。
この日このあと、多くの山鉾町と宮本組の吉符入が斎行され、八坂神社は賑やかになっていきます。
今年は蝉の声を聞いていないと書いている人も多いのですが、私はこの朝、八坂神社境内で聞きました。おそらく一匹だけですが。

芒種、そして蟷螂生(かまきりしょうず)にプチ懺悔

6月6日は二十四節気では芒種。七十二候では蟷螂生である。芒種は種まき、あるいは田植えが始まる頃という意味だ。蟷螂は穀物の害虫を食べてくれるから珍重されたらしい。その蟷螂も生まれる季節というので、この名前がつけられたらしい。

私自身、この文字を見るたび、子どもの頃の切ない思い出とリンクして、胸が痛くなるのだ。

生まれは名古屋の寺町。本願寺別院と大須観音の間くらいの地域である。

どうやら、そこは父方の祖父母の家だったらしい。ある日突然、大須観音近くで暮らす祖父母が私の生家に移りたいというので、両親と私は追い出されることとなった。小学校1年生のときである。

あわてて家を探したのが新興住宅地。東山動物園の先の打越という場所であった。現在の地下鉄の駅でいうと、東山動物園の先、星ヶ丘と一社の間である。一社という駅は未だなかった。プレハブの建売が30軒ほど並び、周囲は丘が広がっていた。春にはクローバーが咲き乱れ、といえば聞こえがいいが、小学校へは裏の小高い丘を越えて行かねばならず、雨が降ると粘土風の土に滑ってころんだこともしばしばだった。

家はプレハブでアクセスも不便ではあったが、木々を植えて庭にするだけの土地は十分に備わっていた。園芸好きの祖母(母方)の助けもあって、母はそれなりに土いじりも楽しんでいたのだと思う。後に東京に転勤になり社宅ぐらしをはじめて人となりが豹変する母だったが、名古屋での日々はストレスもなく、かつ植物に癒やされて穏やかな人だった。少なくとも、私が傷つくほどに攻撃されたという記憶はない。

さて、そんな環境だったので、庭の木々には色々な昆虫が存在した。柑橘類には青虫が卵を生み、やがてアゲハになっていったり、近所の丘でヤゴを捕まえてトンボに返したりしていた。

ある日、どこから発生したのか、いきなり「小さな蟷螂」の軍団が私の机の周囲を覆ったのである。何事かと思って引き出しを開けると、奥から枝に産み付けた卵が出てきた。そういえば、冬だったかに、枝にくっついた泡のような塊をみつけ、引き出しにしまい込んでいたのだった。それを数ヶ月放置して、すっかり忘れていた。

よく見ると、本当にかわいいのだ。あの蟷螂の形をした赤ちゃんが、どれほどいただろうか。百匹くらいはいたに違いない。一匹一匹捕まえて観察するなどという余裕はなく、あれよあれよと湧き出た子どもたちを、窓から逃がすのがやっとだった気がしている。そもそも、あんなに小さな蟷螂を手でつまめば、潰れてしまいそうだったのだ。

外で生き延びたかどうかもわからない。どうにか器に入れて育てればよかったのかもしれない。母がどういう対処をしてくれたか、一人でどうにかしたのか、記憶には定かでないのだ。ということは、引っ越してすぐくらい、6歳ころの出来事だったかもしれない。後に調べたところでは、ニ百匹くらい孵り、生き残るのは二匹ほどだというのだが。

あの子たちを守れなかったことが、どうにも罪深い気がして後味が悪い。歳を重ねて「蟷螂生」という呼び方を知ってから、毎年この日になると心が痛むのである。

6月6日。芒種。蟷螂生。欧州ではノルマンディ上陸作戦の日でもある。合掌。

美山荘へ

花背の奥にある美山荘へ、京都に来てはじめて訪れた。なにせ遠いので、車でないと辿り着かない。運転する人がお酒を飲むことができないので、タクシーをチャーターする必要がある。それには、頭数を揃えねばなるまい。しかも、摘草料理は決して安くなく、財力のある美食家を探さねばならない。

そんな条件を満たす美食グループが2年ほど前に結成された。いや、本来の趣旨は、ある方の追悼から始まったのだから、不順といえば不順だが、しかし、ちゃんと食事をとりつつ思い出話に花が咲いているのだから、そこはお許しいただこう。

さて、美山荘ーー。実はNHKナイトジャーナルで取材させていただいたことがある。ここから先は、写真とともに、後ほど。

6月3日は旧暦・端午の節句も虎・寅・トラ

先月、端午の節句コレクションを見に大阪の個人宅へ。虎の帯を締めて来るようにとのお達しが下り、虎の人形(with 竹)とともに撮影いたしました。オーナーご本人のシャツにも虎がいっぱい。いずれも 若冲の虎です。
関西では、毛植えの虎や 張り子の虎も飾るんですよ。兜ではなく 甲冑を飾るのも関西ならでは。柏餅より粽。東京とは、いろいろ違いますね。あの、後ろの正面、だあれ?
ーー  神功皇后 さまです。
この若冲の帯は黒地の着物にあうのですが、5月でも30度超えでは袷は暑くてとても無理。で、この帯に合う単衣を探したら、ありました、黄色の花織。グラデーションで良しとしました。

5月25日も東京大空襲

1945年5月25日夜。22時半から2時間半にわたって、渋谷原宿、品川も世田谷も杉並も、激しい #空襲 を受け、表参道のみずほ銀行前には黒焦げの遺体が山積みになっていました。今宵は犠牲になった人々に思いを馳せて。詳細は『#ワシントンハイツ』第一章「青山表参道の地獄絵図」に記しました.。