今年1年の本紙紙面の中で最も違和感を抱いたのは、6月19日の社説である。ワールドカップ初戦でトルコに敗れた翌日のことだ。「トルシエ監督とその息子たちに『ありがとう』と言わせてほしい。ここまでやるとは思わなかった」
本紙だけでなく、一般紙社説は申し合わせたように同じ内容に終始した。タイトルさえも横並びである。「よくやった、ありがとう」(朝日)「よくやった、みんなで拍手を」(毎日)「日本チームが元気をくれた」(読売)。
見事なまでの絶賛の嵐だ。思いがけず自分の子供が優秀と知り、舞い上がっている親の心境を吐露しているようでもある。しかし、社説というのは、読者の感情をなぞって活字化するのが任ではない。老練な論説委員の目を通した冷静沈着な見解が求められる。苦言を呈してこそ、社説の醍醐味というものだ。
せめて一紙くらい敗因の分析を試みても良かった。たかがサッカーの話とはいえまい。地方自治体の誘致合戦に始まり、チケット問題でも大騒ぎになった。一試合ごとの経済効果も桁外れ。国民的大イベントだったはずだ。最近の日本人は責任の追及が苦手だ。自分が責任をとらない。かといって、他人を批判することもない。みなで「いい人」でいることに安住している。
ベスト16に進出できたのはトルシエ監督の功績が大きい。しかし、負けた段階では、その采配を問題視する冷静さを持つべきである。半年経って、監督自身はこう語った。「(トルコ戦では)他の選手を起用しても良かったのかもしれない」。
日産のゴーン社長同様、監督も日本の救世主というわけではない。彼らは次の就職先への手土産として数字上の実績を上げるのが仕事なのだ。その目線なしに、彼らを万能の神のように称えるのは一面的で危険である。
また、終わればすべて良しとする風潮もどうかと思う。スタジアムの状況、空席問題、誘致合戦、それJWOCという寄せ集め組織の脆弱さを検証し、次回へとつなげるべきだった。さらにいえば、W杯の問題で終らせず、韓国との比較を通して日本社会を考察することを私は一般紙に期待していた。
経済危機の時もそうだったが、韓国政府が掲げる目標は明確だ。W杯を通して国際社会に韓国の回復を知らしめたい。日本にだけは負けたくない。人々は「ベスト16」という具体的な目標数値をイメージして応援した。
他方、日本はなんとなく勝利を望んだだけだった。敗れた後も韓国を応援する自分たちを美しいとさえ感じたはずだ。勝利に執着しない謙虚さや曖昧さは日本のいいところでもあるが、政府の姿勢がそれで良かったのか。スタジアムの更衣室で裸の選手と抱き合い、はしゃいだだけの小泉総理に、なぜ批判の目が注がれないのか。
日本政府も知恵を絞れば、W杯を景気回復の好機にできたはずだ。そうした声がメディアから上がらないのは、危機意識に欠けているとしか思えない。
新聞が批判の精神を忘れたら終りだ。本紙は常に複眼的思考を持ち合わせ、流されやすい日本人に、意図的に「待った」をかけてほしい。別の角度から光をあてた社説にはっとさせられることを信じ、新年を迎えたい。
2002年 12月29日掲載
2002.12.29