7月29日  民主党大会

 どうも私はケリー夫人が好きになれない。

だが、党大会でのスピーチは、彼女にしては上出来だった。いつもの彼女のテレテレしゃべりが、味わい深く聞こえた。いろいろな言語で挨拶をしてみせ(実際、挨拶だけなので、あれなら私にも言えるのだが)、ヒスパニックの共感を得ることに成功した。

 一瞬、彼女の成長に期待した私だったが、しかし翌々日、女性集会にやってきた時、すぐに、それが幻想だとわかった。だらだらと長いだけ。何も心に響かない。CNNのインタビューに答える姿を見たときに感じたとおり、やはり彼女には人をひきつける魅力がない。知性はともかく、心がない。彼女が話すのを聞くたびに、ヒラリーが輝かしく見えてしまうのは、私だけだろうか。

 アフリカのモザンビーク出身の夫人は、ジュネーブで通訳の勉強していたころ、ハインツの御曹司に見初められて結婚。夫が事故にあって未亡人となった。天文学的数字の遺産をうけついだのだという。その後、ケリーと再婚。本来はメディアが飛びつき、ヒロインに仕立て上げるのに好都合のヒストリーの持ち主である。なのに、魅力がない。どこか下品。

アメリカの大金持ちの家に嫁いだのだから、もう少し品があってもいい。あるいは知性が匂ってもいい。逆にギラギラしていて嫌な奴でも不思議ではない。いわゆる日本でイメージする「セレブ」のかけらも感じさせないのだ。着るものも、着こなしも、ドンくさい。

ならば、素朴で温かくて思いやりがあるように映るかというと、さにあらず。本来はプチ整形をしたことを臆面もなく話す性格や人工中絶をしたことを正直に語ることが評価されてしかるべきなのだが、なぜか共感を覚えない。アメリカの金持ちの嫌らしい部分だけが、そこはかとなく匂うのである。つまり、貧しい人を引き受けない何か。自分たちだけ良ければいいという何か。成り上がり的な何か。偽善的な何か。まだ分析しきれていないが、ある種の冷たさが見えてしまうのである。

 くわえて、ケリーの娘たち。こちらはケリーの血統だが、彼女たちにも洗練された感じがない。家族のサポートを演出したいのだろうが、なんとなく若者に媚びる日本の風潮が逆輸入された感じだ。なんだかなあ。夫人のみならず、娘たちも引っ張り出してくる党大会の演出は、必ずしも成功していない気がする。大衆化がどんどん進んで、アメリカ社会がどんどん軽率になっていくのを象徴しているように映る。

 私が最初に党大会を見たのは、NYで開かれた92年の民主党大会だった。私が未熟だったことを差っぴいたとしても、もっと大人の世界が展開していたと記憶している。党大会の演出は、もっとシンプルで、議員たちのスピーチが心に染み入ったものだ。感動のあまり、泣かされたスピーチもあった。 ファイーストレディ候補はといえば、夫婦で女性集会に来ただけで、党大会にまでしゃしゃり出なかったと記憶している。

 最近は、クリントン前大統領を紹介する段階で、すでにヒラリーが登場し、エドワーズの紹介も夫人が行うという、ベタベタぶりである。挙句のはてに、大統領候補の娘たち。演出過多になればなるほど、中身がなく聞こえてしまう。

 とはいえ、エドワーズの爽やかさと、クリントンのスピーチによって、党大会は成功したと言うべきだろう。スピーチの内容は資金集めディナーの時と大差はないが、デリバリはさらに進化されていて説得力があった。

 ブッシュへの嫌悪感とクリントンの遺産に支えられているケリー。万が一政権を奪ったところで、彼が馬脚を現すのは時間の問題のような気がする。