2002年12月1日掲載 新聞は反政権貫き 読者に思考させよ

 いまの日本に必要なのは「考える教育」だと私はかねて主張してきた。自分で考え、自分の言葉で表現し、相手を説得できるようにする。そして誤ったときには自ら責任をとることを教える。極論をいえば、小学校の低学年では、それを徹底させるだけでも十分なくらいだ。
 ところが先月14日に発表された教育基本法改正の中間報告を見て驚いた。「愛国・公共心」に基本理念を置いている。「個の尊重を強調するあまり『個と公』のバランスに欠け、倫理観も不足している」からだという。
 なるほど、最近の不可解な事件をみれば、若者は自己中心的で人との関係をうまく結べないと判断されても仕方ない。年配者が道徳心を植えつけたくなるのも理解できる。しかし、個の確立ができていないのに公共心を説いたところで、主体性のない人間を大量生産するだけだ。結果、独裁者にとって都合のいい社会ができあがる。
 今回の中間報告に対し、本紙も危機感を募らせた。「戦前の軍国主義から脱却して、一人一人のためにあるとして歩んできた戦後教育を、事実上転換させものだ」(11月15日付社会面)と解説。同日の社説ではこうも指摘している。
「憲法改正の前哨戦として、まず教育基本法から変えたいという政治的思惑が影を落としているのかもしれない」
 だとすれば、実に由々しき事態である。拉致問題を機に被害者意識を共有した日本社会には、いま不思議なナショナリズムが蔓延している。そこへ、この中間報告だ。さらには有事立法にメディア規制法。すでに国民には番号がついている。いつ戦争へ突入しても、おかしくないということだ。
 これが小泉改革だったのか、と疑いたくなる。しかし、竹中大臣の経済改革の果てに自己責任の時代が来るという。ならば、そこに対応できる強い個人を育てることが筋ではないのか。
 ワールドカップ開催中、六本木に繰り出した若者たちを観察し、私はこう印象を持った。幼稚―。何の目標も闘争心もなく、ただ皆と一緒に漂いたい。何か楽しいことを共有したい。その枠組みに収まっていればいい。異質人は受け付けない。「私に任せておけば安心だ」。そう言ってくれる人を待っている。
 小泉人気の理由がここにあると私は思う。23日、24日付の朝刊に小泉支持率のねじれ現象が載っていた。経済政策に期待はできないのに、支持率は高い。政策の是非よりも、すべてを一言で片づける総理のパフォーマンスの方が人々の心に浸透してしまうのである。
 だからこそ言いたい。
 新聞まで総理のイメージ戦略に寄り添っては駄目だ。野党が機能しない昨今、新聞が徹底的に反政権を貫いてこそ、ようやくバランスがとれるのではないか。
 総理の言葉の垂れ流しではなく、本紙ならではの解釈を示してこそ、新聞の使命を果たせるというものだ。考える教育を受けてこなかった日本人に「考える習慣」を提供する紙面を本紙に望みたい。