4月27日 自己責任論と日本人異質論

 七七日の法要のため日本に滞在する間、メディアを支配したのは「自己責任論」だった。

 この一件はアメリカでも波紋を呼ぶこととなった。連日これだけ報道されれば記事にもなる。NYタイムスの、しかも一面で、人質に自己責任を押し付ける日本政府の「日本のお上意識」批判という切り口でコラムが書かれ、これが日本人異質論に巻き起こしたのである。

解放された瞬間、人質だった3人が「イラクにとどまりたい」と発言した。これを受けてコメントを求めた番記者に、小泉総理が「この場に及んで、そういうことを言うんですかね。どれだけの人が侵食を忘れて彼らのために働いたか」と口走った瞬間を、私は日本のテレビで見ていた。この後、次々と与野党の議員たちが「自己責任」を口にし始め、かかった経費を本人たちに請求すべきだとまで言い始めたため、メディアの中心的トピックとなったのである。こうなると、週末の番組では軒並み特集されるというお決まりのパターンで、中には親切にも誰が最初に口にしたかをVTRでさかのぼってくれた番組もあった。外務次官だった。

邦人保護は外務省の重要な仕事である。この段階で、外務次官が思わず「自己責任」と口にしたのは、適当な言葉遣いではなかったと私は思う。「大人としての自覚」とでも言えばよかったのだ。「自己責任」と言ってしまった段階で、外務省が邦人保護の義務を放棄しているようにもとられるし、再三、外務省が勧告を発しているのを無視して出かけていくとは何ごとか、という「上」からの目線が、NYタイムスの「お上意識」という記事につながっていったのである。

しかし、このとき、多くの国民が「お上意識」批判に傾かず、次官や小泉総理のコメントに頷いてしまったのは、3人が「地球の歩き方」の延長で戦地に出かけていく危うさを嗅ぎ取ったからだと私は考えるに至った。くわえて、彼らのきょうだいによる、人騒がせな「お子ちゃま」劇に、日本社会という世間が怒ったのである。

 だからといって、政府や国会議員が次々と「自己責任論」を口にし始めたのは、調子に乗りすぎたとしか言いようがない。日ごろの行いから判断するに「責任」という言葉をご存知だったのも意外だが、政治家としてはあまりに大人げない。外国人からみれば、国家をあげての国民いじめともとられる発言だ。イラクで起きることはすべて、国内問題では終わらないのである。人質救出にはアメリカにもずいぶん助けられたとの説もあるくらいだ。そういう事件について、国際社会という世論を意識できないのは、地元における自分の票のことしか考えてない国会議員の姿を露呈したといえる。

一方で、官邸や外務省が侵食忘れて心配したのは、自衛隊の撤退である。本音だろう。せっかくアメリカに気を遣って同盟国として一人前扱いされるところに来たのに、関係がこじれては大変だ。「お子ちゃま」ごときに日米同盟を揺るがされてはたまらない。拉致家族の問題でアメリカの協力が得られなければ、小泉政権の寿命にかかわるからだ。

実際、自衛隊派遣で日本はアメリカ政府から一定の信頼を勝ち取ったようだ。それを裏付けるかのように、数日前、ジョージタウン大学の学部生を対象にした外交シミュレーションゲームで、アメリカの大統領役を演じたオルブライト女史は、学生扮する日本の外交チームにこうコメントした。

「日本には今回の一件で、それはそれは感謝していますよ」

もちろん、イラクへの自衛隊派遣についてである。彼女はブッシュ大統領になりきって現政権の考えを代弁したのだ。

 ところが、日本政府がこれだけアメリカに恩を売ったにもかかわらず、当のアメリカでは国務長官パウエルが、この日本政府の「自己責任論」に疑問を呈したのはなんとも皮肉な話である。こういう時、誰でもヒーロー扱いしてしまうのも短絡的だが、これはアメリカの癖(へき)なのである。

NYタイムスの一面の記事を書いたのは日系の記者である。彼のいう「お上意識」だけでこの騒動は片付けられない。だが、アメリカではこれによって、日本人は不可解だということになってしまった。少なくともオルブライト女史はそう感じたようで、私は解釈を求められて困った。

後で拘束された2人のジャーナリストに比べて、3人はプロ意識もなく、情熱ばかりが先走っていたのは事実だ。自分たちの拘束がどれほどの騒動になるというシミュレーションができなかったことに未熟の匂いがつきまとう。しかし、外遊先では大使館職員に段取りを任せきりの国会議員はどうなのか。この記事がアメリカのメディアの一面を飾り不可解な日本人論を生み出すことを計算できず、国内世間の追い風を受けて「自己責任論」を振りかざした政治家の「先生方」も同様に、いい歳して「お子ちゃま」なのである。